第80話 無人斎は、闇夜の密会で……
天文24年(1555年)7月下旬 駿河国駿府 武田無人斎(信虎)
氏真がやって来たのには驚いたが、その氏真も上機嫌で館に帰り、賑やかだった宴は終わった。備中守も、応援に来てもらった藤屋の連中もすでに引き上げており、屋敷は今、深夜という事もあって静寂に包まれている。
だから儂は、いつものように人気のない台所で寿を待つ。これまでも3日に1度はこうして密会して、見聞きしたことを教えてもらっていたのだ。今宵も同じように新たな情報を得るために。
「お……来たか。むっ!?」
但し……現れたのは寿だけではなかった。どうやら、すでに事は露見したようで、藤吉郎と五右衛門の姿もそこにはある。ゆえに、最早これまでと儂は逃げ道を探った。
「あ、待たれよ。別に咎め立てするつもりはないのだ。話をしたいだけでな」
「話をしたいじゃと?」
「そうよ、無人斎……いや、武田陸奥守様。貴殿が知りたかったのは、我が殿の真意なのでしょう?」
ほう……儂の正体に気づいていた上で泳がしていたというわけか。くくく、これは愉快じゃな。この藤吉郎という男……なるほど、百姓上がりでも、大蔵が重用するはずだ。
「それで、知りたくはありませんか?我が殿の真意というものを」
「そうじゃのう。ならば、藤吉郎。それをそなたが教えてくれるという事だな?」
「ええ、構いませんよ。我が殿の利益を考えたら、この辺りで陸奥守様をお味方に……と思っておりましたので」
そして、藤吉郎は松下大蔵がこの先、今川家で何を目指しているのかを話してくれた。尾張、美濃、伊勢を平定し、果ては天下を目指す……と。
まあ、織田信長を果たして思惑通りに従わせることができるのかは、些か不安がないわけではないが、少なくとも行き当たりばったりな上洛計画を唱える上野介よりかは考えているようだ。その点は儂も大いに評価する。
「しかし、見ての通り、今の儂は国を追われて婿殿の家に居候する哀れな老人ぞ。そなたは味方にしたいと申したが、そんな儂に何を期待するのだ?」
「お言葉ですが、それならなぜそのように頭を丸めてまで当屋敷に潜入を?我が殿が手を握るに値するのか見極めるためだったのでは?」
ふふふ、違いないな。そこも含めて、何もかもお見通しというわけか。
「陸奥守様は、お屋形様を天下人にして、甲斐の守護職を取り戻されたいのですよね?」
「ああ、そうだ。しかし、仮に儂が松下大蔵に味方したとして、果たしてそれは可能かな?」
「我が殿が今川家で重きをなすようになれば、先程申し上げた構想はやがて実行されることになりましょう。それは、陸奥守様の希望にも適うと存じますが?」
「おお……確かに成功すれば、お主の言う通りであろうな。だが、賢いそなたなら気づいておろう。今のままなら、絵に描いた餅だと」
仮に大蔵が今川家で雪斎に代わる執政になったとして、織田を攻めて尾張を獲るまでなら、思惑通りに事は進むかもしれない。しかし、三河への本拠地移動の事もそうだが、そこから先は一筋縄では行かないはずだ。
名門・今川家は、譜代の力が非常に強いのだ。新参者の大蔵が成功者になる事を望まない者はきっと多数現れるはずで、そうなれば……この計画は中途半端なままで打ち切りとなる。
「そなたは朝比奈備中守を味方だと思っておるだろうが、あれこそ譜代の代表だ。先々で、敵に回る事は十分に考えられると思うが……そのあたりはどうだ?」
「もちろん、その辺りの事は想定しております。ですが、備中守様も齢60を目前としている老人。そう長くは生きられますまい。尾張が落ちるころには……」
「それを申したら、儂などはもっと先が短いと思うが……」
「あ……これは失言でしたな。ご無礼致しました。しかし、陸奥守様は甲斐に戻られる日まで死ぬつもりはないのでしょ?」
「当たり前だ!儂の旗を躑躅ヶ崎館に立てるその日まで、絶対に生きる!」
「やはりそうですよね。実に結構かと。……しかし、備中守様にはそのような生にしがみつこうという気概はございませぬ」
その上で、藤吉郎は構わず言う。これでは、やはり備中守は長くないと。
そして、雪斎と備中守がいなくなった今川家に、大蔵の敵になり得る人物がいるとすれば、それは儂かあるいは寿桂尼のくそばばあだとも言った。
「あの……某は別に『くそばばあ』とは申しておらず……」
「そのような事はどうでも良いが、家中に人無しとは大きく出たものよな。氏真は……調略ずみということか」
「ええ、先程美人局で型に嵌めました。もっとも、本人は嵌められたとは思っていないでしょうが……そこの寿様を側室にと望まれまして」
はぁ……愚かな孫よ。だから、「何しに来た、さっさと帰れ」と忠告したのだ。世間知らずのボンボンなのだから、館に居ればよいものを……間抜けな奴め。
「それで如何ですかな?陸奥守様。我らに協力なさるか、なさらないか。そろそろお答えをお聞きしとうございますなぁ」
だが、孫の事をとやかくいう資格は、儂にもないだろう。何しろ、型に嵌められたのは儂も同じだ……。




