第79話 若殿は、美人局を逆手に取り……
天文24年(1555年)7月下旬 駿河国駿府 今川氏真
「ささ、おひとつどうぞ」
見たことのない服を着て、余に酌をしてくれるこの女性は、大蔵の妹で名を寿というらしい。少し前かがみになるたびに、その胸元の谷間が目に入って余の息子殿が反応するが……それだけに警戒した。この裏にある真意はどこにあるのかと。
「寿……どうしたのだ、その恰好は」
「藤吉郎が兄上のためになるからと……」
なるほど……その藤吉郎が誰かはわからないが、その者の思惑としてはこうして余の息子殿を刺激して、あわよくば手を出させようとしているのだろう。側室にでもすれば、その兄である大蔵を取り立てぬわけにもいかぬからな。
だが、見くびるなと言いたい。余は名門・今川家の世継ぎで、しかもまだ幼いとはいえ婚約者もいる身だ。このような美人局にひっかかると思ったら大間違いだ。
「とにかく、すぐに着替えてきなさい。流石に若殿に失礼だ」
あ……でも、着替えるには及ばないな。要は余が手を出さなければ済む話だ。
「待て、大蔵。よいではないか。そのままの恰好でも余は気にせぬぞ」
「いや……しかし」
「余が構わぬと申しておるのだ。寿とやら、もう一献」
「はい」
うむぅ……それにしてもこの景色。実にけしからんな。一体誰がこのような着物を考案したのやら。大蔵にはその辺りを是非に聞きたいものだ。余の代になったら、館の侍女・女中が着用する制服に採用するためにもな……。
「ところで若殿様」
「なんだ?」
「先程、家中の同世代の者たちに、某に賜った質問を為されていると伺いましたが、他の方々はどうお答えになられたので?」
「ほう……気になるか」
「ええ。某も朝になったら川に浮いていたという、笑えない話は御免蒙りたいですからね。無論、聞いたからと言って己の節を曲げたりしませんが、よろしければ参考にお教えいただけないかと……」
「そうよなぁ……」
ま……別に構わぬだろう。いずれも聞いたことのある話ばかりで、大したことはなかったわけだし。
「そなたも存じている通り、今の今川家中は武田・北条と盟約を結んだ今こそ上洛を果たして天下に号令をと望む者らと、それよりも三国の領地をしっかり固めるべきだという者たちに分かれている。そして、聞いた連中のいずれもがそのどちらかの主張を唱えるばかりだ」
この大蔵のように独創性があるわけではなく、そこまでいかなくとも自分でしっかり考えて結論を出したわけでもなく……ただ、「三浦様が」「朝比奈様」が、と宿老が言っているから間違いないとばかりに追従する。
はっきり言って、余の代の今川家は真っ暗だなと思った。ああ、思い出しただけで折角の澄酒が苦くなる。
「だからこそ、大蔵。そなたの意見は余にとって非常に得難い貴重な物であった。礼を申すぞ」
「あ、そのような……大したものでは……」
しかし、だからこそこの大蔵は、我が今川家にとって貴重な人材とも言えた。備中守や雪斎がまるで卵を守るかの如く、大切に守り育てようとしているのは、きっとその辺りを理解したからなのだろう。
それなら、余としてもこの大蔵の後押しをするべきだ。
「なあ、大蔵……寿をお持ち帰りしても構わぬか?」
「はい?今何と……」
まあ、驚くのも無理はない。何しろ、さっき初めて来て、こうして酌をして貰い始めてからも左程の時間が経っていないのだ。いくら色っぽい恰好をして迫られたとはいっても、これで落ちたというのなら、チョロ過ぎるとも思う。
だけど、政略的にはありだと考えて、余は改めて提案した。この寿を我が側室に迎えたいと。そうすれば、この大蔵を比較的早く我が今川家の重臣に推すこともできるという思惑を込めて。
「如何であろうか?そなたにとってはそう悪い話ではないと思うのだが……」
「はぁ……」
しかし、大蔵は即答を避けた。備中守もその意思を尊重して、余に猶予を求めて来たからこれを認める。
まあ、確かにそう急ぐ必要はない。余は「心が決まったら、申し出てくれ」とだけ返して、この話題を打ち切った。




