第77話 嘉兵衛は、今川の若殿を歓待する
天文24年(1555年)7月下旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
「え……襲われた上に、今川の若殿様に救われて、それで今、その若殿様がこの屋敷にお見えになられているって……どういう状況ですかぁああああ!!!!」
俺から一通りの事情を聴いた藤吉郎は、流石にこのような事態を想定していなかったのだろう。開口一番、戸惑いの声を上げた。なお、氏真公は……ひとまず、客間にお通ししている。もちろん、失礼がないように、だ。
「まあ、気持ちはわかるが、藤吉郎。まずはこの危機を乗り越えなければなるまい」
そう……いつものように、次郎三郎や左京様をお招きするのとわけが違うのだ。もし、ご機嫌を損ねるような粗相を仕出かせば、明日の朝陽を拝めないという事だってあり得るのだ。
「そ、そうですな。とにかく、襲撃の件は後回しにして、若殿様の歓待を優先させましょう。酒は澄酒がありますからそれをお出しするとして、料理は……五右衛門」
「ま、まさか、俺に作れというのではないよな?」
誰も居なかったはずの空間に突然その五右衛門が現れたから驚いたが、藤吉郎は平然と言った。「そんなはずはあるまい」と。
「五右衛門はこれより藤屋に行って、親父を連れて来い。金に糸目をつけるなよ?言い値で構わぬからな」
「わ、わかった。すぐに行ってくる」
藤屋とはこの近所にある小料理屋で、俺も時々通っている店の一つだ。確かにあそこの飯は美味い。だけど、料理人を連れてくるのであれば、寧ろ駿府一の料亭・梅小路の方が良いと思うのだが……その事を訊くと藤吉郎は答えた。
「梅小路は、恐らく若殿様も幾度なく通われているはず。ですので、その料理を出しても食べ慣れている分、あまり喜ばれないかと」
「なるほど……」
「到着次第、寿様に運んでもらい、そのまま酌をして貰う手筈を整えておきます」
「待て。そういうのはおとわの方がよくないか?機嫌を損ねると思うが……」
何しろ、この屋敷の女主人はおとわなのだ。今は確かに関口家に行っていて留守にしているかもしれないけど、事情を話せば帰って来られなくもないだろう。しかし、藤吉郎は首を振った。
「殿……おとわ様とはまだ婚礼前の間柄。もちろん、内々で一緒に暮らされるのは構わないとは存じますが、公にその事を知らしめるのは、流石に関口様にご迷惑が掛かるかと……」
それゆえに藤吉郎は逆に関口家へ使いを出し、今宵は帰って来ないように伝えると言った。きっと、ブチ切れるだろうなと思ったが、言っている事に間違いはない。明日謝って、それから城下の甘味処を梯子して機嫌を取ろうと決意して、これを認めた。
「あと、殿におかれましては、すぐにでも客間にお戻りを。若殿様をあまり長く放置するのはよろしくはありませんから」
「わかった。では、後の事は頼めるか?」
「お任せを」
左近がまだ遠江から帰っていないから、藤吉郎の負担は少なくはない。一応、文は貰っており、何でも「気になる事ができたので、調べてから帰ります」ということらしいが……こんな事になるなら、正直な気持ちとしては早く帰って来いと思ってしまう。
だけど、今はそれを言っても仕方がない。俺は言われる通りに客間に戻った。
「あれ?」
「おお、戻られたか。いやはや、済まぬな。急な訪問ゆえ、何かと大変であろう。見たところ、家臣や使用人もあまりいないようだしな……」
「い、いや、まあ、そうではありますが……」
確かに我が家の従業員数は、『鬼教官』の評判があって求人募集をかけても応募無しという悲惨な状況が続いているが……そんな事よりも、俺はこの場に無人斎が何故いるのかと首をかしげた。無人斎もばつの悪そうな顔をしているし、一体何があったのかと。
「まさか、この者が何か粗相を?」
「ふふふ、それは大丈夫だ。なぁに、そこで庭木を手入れしていたものでな。こうして待っていても暇だから、少し話をしていただけだ」
「はぁ……」
そして、そこに藤吉郎が現れて、用があるからと無人斎を連れて行った。きっと、関口家への使いを頼むのだろうが、どこか腑に落ちないものを感じた。
ただ……それも一瞬の事。氏真公はこうして俺が部屋に入り、着座するなり話を切り出してきたのだ。「これからの今川家の行く末について、率直な意見を訊かせてほしい」……と。




