第76話 嘉兵衛は、今川の若殿に救われる
天文24年(1555年)7月下旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
三浦様と左京様を見送り、俺も自分の屋敷へと帰った。次郎三郎が「酒でも……」と言ったが、俺も水腹なのでと笑いながら遠慮することにしたのだ。
ちなみに、今日の首尾は上々といったところだ。三浦様も左京様も最後の方は和やかに話し合いをされていたし、こういう機会をあと2度、3度持つことができれば、きっと朝比奈家と三浦家が薩長同盟のように手を結ぶ日が来るのではないかと思っている。
なお、茶室では政治の事は話さないことになっているため、その時は別途席を設けて酒でも……とか思いながら歩いていると、気が付けば前後をわけのわからん覆面の男たちに塞がれていた。
「退け……と言っても退かないよな?」
「問答無用……」
どこの誰の差し金かはわからないが、襲われているのに「話せばわかる」などと俺も言わない。刀を抜いて、直ちに応戦した。
「くっ!」
しかし、今日の俺は水腹が祟ってどうやら調子が悪い。相手は30人ほどだが、次第に劣勢になって追い詰められていく。はっきり言って、このままではまずいと思った。
「おい!そこで何をしているかぁ!!」
だが、その時だった。そのように馬上から大きな声を上げて、こちらに近づいてくる武士の一団が現れたのは。
「退け……!」
そして、分が悪いと判断したのだろう。襲撃者たちは波が引くように去っていった。駆け付けた騎兵の一部が追いかけて行ったが、すぐに引き返してきた。どうやら、相手は忍びのようだと言って……。
「し、忍び!?」
「……そなた、何かやらかしたのか?普通はそんな連中に狙われぬよな?」
「え、ええ!某も全く心当たりは……あ、すみません!助けて頂いたというのに礼も申さず……」
その若武者は「気にするな」と言われたが、流石にそうはいかない。俺は改めて名乗ることにした。「今川家家臣、松下大蔵少輔にございます」と。
「おお!貴殿が評判の大蔵殿か!」
「あの……評判とは?」
あまりいい予感はしなかったが、案の定、その若武者は言った。「血も涙も地獄に置いて来た鬼教官」と……。
「あ、はは……まあ、そう言われる予感はしていましたが、全ては今川家の未来のためにて……」
「そうか、ならば仕方ないな」
「はい……」
明日からしばらくの間は、訓練内容マシマシで行こう。余計な事を言う気力がないほどに追い込んで……。
「しかし……それなら先程のは、貴殿のしごきに耐えかねた連中の仕業という可能性は?」
「それは某も考えましたが、忍びともなれば何か違うような気もしますね」
「ふむ……確かにそうよな。だけど、そうなると一体誰の仕業なのやら……」
それは俺も同感ではあるが、今、ここでその事を議論しても答えは出ないだろう。この件は帰ったら五右衛門に調べてもらう事として……そういえばと気が付いた。この助けていただいた方のお名前をまだ伺っていないことを。
「ああ、そういえばそうであったな……」
「差支えがなければ、教えていただけないでしょうか?」
「そうよな……差支えがないわけではないが、そなたは今川の家臣。いずれわかるゆえに名乗っておこう。余は、今川上総介である」
今川上総介——その名を聞いて、俺は慌ててひれ伏した。何しろ、この方は……今川家のお世継ぎである氏真公であるからだ。
「これは知らぬこととはいえ、ご無礼を!」
「よいよい。今川に仕える者は皆、俺にとっては家族だ。襲われていたら助けるのは当然であろう?」
その言い分はご尤もなことかもしれないが、それでも畏れ多い事には変わらない。しかし、氏真公は「そうじゃ」と言われて、俺に提案をした。折角なので、今宵はこれから我が家を訪ねたいと。
「え、えぇ……と」
「今川家臣は、我が家族も同然だ。だからよいよな?」
突然そのようなことを言われてもと思うが、だからと言ってこうなってしまえば断ることはできない。俺は仕方なくこの申し出を受けることにしたのだった。




