第8話 嘉兵衛は、脳筋姫のクレームに屈しない
天文23年(1554年)6月上旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
早朝——。
俺は藤吉郎に手伝ってもらって、広間に張り紙をした。それは、この井伊家の財政を健全にしていくために定めた予算表である。ただ、今までがどんぶり勘定で行っていたようなので、その隣に過去1年間の実績を記して、これからどれだけ削減するのかもわかるようにも工夫した。
これなら、いくら脳みそが筋肉で固まっていたとしても、これからは節約しなければならないと分かってくれるだろう。
「いや、たぶん分からないんじゃないですか……」
「まあ、その時はきちんと説明すればいいだろうさ」
ちなみにその説明だが……もちろん、真面な言葉が通じるわけがないので、肉体言語での説明となるはずだ。不意に前世のやんちゃなガキどもとの会話を思い出したが、そんな経験はすでに体験済みだったりするので、意外と説得できる自信はあったりする。
そして……但馬守殿のいる勘定方の部屋に戻って、通常業務に取り掛かってしばらくすると、案の定というか、ドタバタと怒りが籠った足音が近づいてくるのが聞こえた。
「え、えぇ……と、嘉兵衛殿?」
「すみません。ちょっと騒がしくなるかもしれませんが、我慢してください」
「いや、意味が分からないんだけど……」
ただ……ここで少し予定外のことが起こってしまった。
「この張り紙をした松下嘉兵衛という男はどこにおる!」
そのように怒りをまき散らしながらこの部屋に入ってきたのは……この城の姫君であらせられるとわ様であった。ゆえに、但馬守殿も俺も、反論する前に頭を下げて出迎えた。
「それで……某が松下嘉兵衛でございますが、姫様、何か御用でしょうか?」
「御用でしょうかではないわ!なんだ、これは!このふざけた張り紙は!!」
「はぁ……今年度の予算表にございますが?」
そして、「それがなにか?」……と惚けて見せたのだが、とわ姫様の怒りにどうやら油を注いでしまったようだ。しきりに、剥がした紙の一部をバンバンと叩いては、激しく撤回を求めてきた。具体的には、菓子代に酒代、あと鉄砲の玉薬代とを……。
「……畏れながら、これはすでに殿のご裁可を仰いでおりまする。従って、撤回できませぬ」
「それなら、わたしが父上に直談判すればいいのだな!」
「やっても構いませぬが、それではこの井伊家は遠からず滅びますぞ。それでもよろしいので?」
「井伊が滅ぶだと!?ぶ、無礼な!そこへ直れ!!」
はぁ……やっぱり、ここに来た時の様子から気づいていたけど、このお姫様も相当な脳筋だったようだ。顔はかわいいのだが、と少し残念に思いながら、だからといって一方的に打ちのめされる趣味はないので応戦させて頂くことにする。あとで叱られるかもしれないが……。
「わたしが勝ったら、撤回してもらうからな!たあああ!!!!」
そして、とわ姫様が手にされているのは木刀であった。しかも、その攻撃は中々に鋭く、力強くもあり……もし、前世の世界で高校の剣道部に所属していたなら、きっと県大会で上位の成績を収める事ができるだろうなとも思った。
しかし、残念ながら今回ばかりは相手が悪かった、そう言っておこう。
「え……?」
俺はその攻撃を両手で挟んで受け止めると、そのまま捻って姫様を横に回転させた。その際、手にしていた木刀は自然に離れたので、これも回収する。
「な、何をした……?」
「真剣白刃取りという技ですよ。ご存じではありませんでしたか?」
「くっ!」
まあ……悔しそうにしているけど、知らなくて当然だ。だって、この技は俺もテレビで見て使えないかなと、男友達と毎日馬鹿みたいな練習を積み重ねて習得した技なのだ。もちろん、この時代に知る者などいるはずがない。
「それで、姫様。こうして某に負けた以上は、予算削減について……ご納得いただけますよね?」
「う……」
「これも井伊家の為なのですよ。姫様にはご不自由をお掛けして誠に申し訳なく思っておりますが……どうか、我慢して頂けないでしょうか?」
しかし、この程度の説得で通じるのなら、そもそもの話、いきなり木刀を振りかざしてお話し合いをしようとは思わないはずで……
「覚えていろ!次は絶対に勝ってやるからな!!」
などと捨て台詞を吐かれながら、この部屋から何処かへ立ち去られていった。だから、俺は仕方なく、通常業務に戻る。但馬守殿の顔が引きつっているが、「次の書類は……」と。




