第73話 嘉兵衛は、次郎三郎の未来を憂う
天文24年(1555年)7月中旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
泡を吹きながら倒れている孕石を見て、内心ではザマアと思うが……流石にこのままで済むはずはない。控えていた孕石の家臣たちが隣にある自分たちの屋敷に居る仲間たちを呼んで……
「殿の敵討ちだ!一人残さずぶち殺せ!!」
……などと、叫んでこの松平屋敷に集まり始めた。慌てて門を閉めて、これからどうするのかと次郎三郎らと話し合うが、こうなっては例え瀬名様の名を出したとしても戦いを避ける事は不可能と判断して、こちらも迎撃準備に取り掛かる事にした。
「……ということは、わたしも戦っていいわけよね!」
「おとわ……なぜ、そのように嬉しそうなのだ?」
「だって、嘉兵衛がいっつも言っていたストレス?……ってやつが溜まっているのよ。駿府に来てから気晴らしに『ちょっと遠乗り』ってわけにもいかないし……」
まあ、養女とはいえ、今川一門にあたる関口家の姫となったからには、お淑やかに振舞う必要があるわけで、おとわの不満は俺もわからないわけではなかった。しかし、だからこそ、ここで戦わせるわけにはいかない。
「ええ!どういうことよ!瀬名様と一緒に裏口から逃げろって……」
「いいか、今のおとわは関口家のお姫様だ。そのお姫様が刀を振るって返り血に染まった姿をさらしてみろ。忽ち、刑部少輔様にご迷惑が掛かる噂が広まるだろうが!」
「でも……」
「それに、いつまでも瀬名様をここに居させて、万一の事があったらどうする?一緒に逃げる事も非常に重要な役割なんだぞ」
そう……このままではいくさが避けられないのだから、瀬名様には安全に退去してもらわなければならない。寿や他の侍女たちを守って、裏口から早く出るようにと俺はおとわに頼んだ。しかし……
「お言葉ですが、大蔵殿。わたしは逃げませんわ」
「瀬名様?」
「だって、こうなったのは全部わたしの作ったお味噌汁のせい。そうですよね、次郎三郎様?」
「え……い、いや……」
「次郎三郎様?」
「まあ、そうですが……」
おいおい、次郎三郎。そこで日和ってどうする。その調子だと、結婚したら確実に尻に敷かれるぞ……。
「それに……要は、そこでお眠りになられている孕石殿が蘇ってくれたらいいのですよね?」
「そうですね……」
もしかしたら、蘇っても「謝罪と賠償を要求する!」とか言って騒ぐかもしれないが、生きているのだから仇討ち騒動にはならないはずだ。
「でも、蘇らせるって……」
「実はね、次郎三郎様。わたしの本職は薬剤師でして……こういう事もあろうかと、解毒剤はたんまりと用意しており……」
ただ……俺も経験したが、確か薬はあっても飲ませなければならなかったはずだ。
だから、また口移しなのかと、自然と瀬名様の後ろに控えているお万殿を見たのだが……明らかに嫌そうな顔をしていた。
いくら主の命であり、慣れている事とはいっても……不細工な孕石とはお断りのようだ。
「お万、そのお顔は嫌なのですね?」
「申し訳ございません!どうしても、その男の顔を見ていると吐き気がするので……」
「わかったわ。ならば……徳三!」
「御指名ありがとうございます!姫様!」
瀬名様に徳三と呼ばれた大柄の侍女は、よく見るとあごの辺りには髭を剃った跡があり、青白い。名前からしてもきっと女装した男という事だろう。
「では……いただきます♪」
しかし、そんな徳三は嬉々として、孕石に口づけして、そのまま薬を喉の奥へ流し込んだ。
「あ、あれ……俺は何を……さっきまで、河原でおばあちゃんと……」
「ふふふ、無事に戻ってきたようですね?」
「せ、瀬名様!」
今の言葉で、孕石は本当に死にかけていたのだと理解したが、瀬名様は容赦ない。矢継ぎ早に、速やかに外の騒動を収めるように命じた。
「どうやら、あなたの家来衆はわたしの首を取ると騒いでいるのよ。わかっていると思うけど、そんなことしたら孕石家は謀反の罪で、一族郎党皆殺しなわけで……」
「す、すみません!た、ただちに!!」
「あと……あなたが泡を吹いたのは、持病の癲癇が悪化したからという事で……」
「あの……某は別に癲癇持ちでは……」
「今日罹りました。いいですね?」
「はい……」
笑顔なはずなのに、半端ない圧力がそこにはあるのだろう。孕石は反論する事ができずに、門の外へそのまま出て行き、家臣たちを引き上げさせた。
「うふふ、これで一件落着ね!」
しかし、その笑顔で勝利宣言をする姿に……未来の家康がどうして信長の力に縋ってでも、この瀬名様を排除したのかが何となく透けて見えて、俺は素直に喜ぶことはできなかったのだった。確かにこのネジのぶっ飛び具合は、只者ではない。
「兄貴……婚約破棄、できないよね?」
「ああ、無理だな……死にたくなければ」
とにかく頑張れ、次郎三郎……。




