第68話 嘉兵衛は、元婚約者にまんまと嵌められる
天文24年(1555年)6月上旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
駿府はこの時代にしては大きい街だが、旅人が泊まる宿がそれほど多いわけではない。しかも、街道沿いに集中していて……探し始めてから比較的早い段階で、寿殿が『泉屋』という宿に居ることを突き止めた。
「寿殿!」
「嘉兵衛様!」
かつて婚約していたのだから、情がないわけではない。ただ、今の俺にはおとわという婚約者がいるため、節度を守って応対する。再会を喜び抱き合ったりもしないし、キスなどもしない。距離を保ってその前に座る。
「あ……白湯を用意してもらいますね」
そして、その事は寿殿もわかっているのだろう。すぐに階下にいる宿の者に頼んで用意してもらって、俺の前に差し出してくれた。話は……少し長くなりそうなので、これを飲みながらしましょう……と。
「それで……俺に会いに来たと聞いたが、源左衛門と一緒ではないのか?」
すると、どうやらこの質問は地雷だったようだ。寿殿の顔が一瞬にして曇った。
「あ……もし言い辛いようなら……」
「源左衛門様との縁談は破談となりました。ですので、ここにはわたし一人で……」
「なに!?」
引間を去る際に、寿殿と一緒になれると喜んでいた源左衛門を知るだけに、どうして破談になったのかと不思議に思っていると、婚儀の前に愛人を囲ったそうで……それがどうしても許せないから別れたと話してくれた。
「愛人って……あいつ、一体何を考えて……」
「飯尾の若殿、善四郎様から押し付けられたと申しておりましたが、仲は非常に睦まじいようで……この秋にはお子様が誕生されるとか」
「そ、そうか……」
つまり、俺はもうすぐ伯父さんになるというわけか。まあ、縁は切れているからどうでもいいが……。
「だが、怒る気持ちはわかるが……源左衛門は寿殿を正室に迎えるつもりだったのだろう?」
令和の時代では『二股交際』などと文〇砲で吊るし上げられるこの事案は、この時代であれば何も悪ではない。愛人(側室)を持ち、子をなす事は、家の存続を図るために必要と見なされる場合が多いのだから。
ゆえに、この時代の価値観的には、正室としての立場を尊重してくれるというのなら、問題ないように思えるが……
「あと、借金もありました!それから、嘉兵衛様を孕石とかいう駿府の偉い人に売ったとかで、飯尾家中でも孤立していて……どう考えても、先はありませんでした!」
なるほど……そういう事情ならば、源左衛門を見捨てて婚約を破棄したのも無理からぬ話だ。父上の葬儀もあったし、相当な借金があったことは俺も知っている。
哀れであるが、そもそもの話として縁がなかったのであろう……。
「しかし、破談となった事情はわかったが、この駿府に来たのはどうしてだ?石見守殿はこの事を……」
「父上には黙って出てきました。源左衛門との縁談がダメになった後、足下を見られてろくでもない縁談しか用意できないようでしたので、逃げてきたというか……」
「逃げてきたって……」
それならこれからどうするつもりなのか。いや……俺を訪ねてきたという事は、もしかして復縁を望んでいるつもりなのか?
そんな事を思って、ふいにおとわの鬼の形相が脳裏に浮かんで……背中に嫌な汗が滲む。まずい、早く逃げなければと頭の中では警告音が鳴り響いた。しかし、どうやら気づくのが遅かったようだ。
「あ……」
不意に眠気が襲ってきて、俺は先程から飲んでいた白湯に薬が盛られていた事を知った。
「と、寿殿……な、なにを……」
「別に正室にして下さいとは申しません!側室の一人として……どうか、お側に居させていただけないでしょうか?」
いただけないでしょうかも糞もない。瞼が重くなって、体に力も入らないのだ。耳からは着物を脱いでいる音が聞こえたが……やがてそれも聞こえなくなる。
(ま、まずい……嵌められた!)
心の中で叫んだが、それを口にする事も出来ず……やがて意識を手放した俺は、夢の入口に現れた鬼の形相のおとわに土下座して許しを乞うたのだった。




