第66話 嘉兵衛は、無人斎と名乗る老僧を受け入れる
天文24年(1555年)5月下旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
屋敷に連れ帰った僧は、自らを「無人斎」と名乗った。何でも、甲斐国から高野山に向かうためにこの駿府に立ち寄ったが、道中でスリにあって、有り金を全て奪われたと……。
「それは大変でしたね」
「左様左様!しかし、命がこうしてある事を御仏に感謝しておりますぞ。こうして、美味い食事にありつけたわけですし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
そして、路銀の全てを失った無人斎殿は、この駿府に辿り着いてから、托鉢を行い、日々を食いつないでいたが、ついには力尽きてあのような場所で倒れてしまったと、美味しそうにご飯を食べながら打ち明けてくれた。
「お代わりを所望したいが、よろしいか?」
しかし、どんぶり飯で5杯目か。ホント、齢を召されているというのによく食べられる……。
「ところで、御坊。この後どうなされるおつもりか?」
お代わりのどんぶりを差し出しながら、そう訊ねたのは藤吉郎だった。ここでお腹いっぱい食べたから、最悪数日はもつかもしれないが、その先は又、今日と同じように倒れて……あるいは、野垂れ死にするのではないかと。
すると、無人斎殿は箸を止めて、「そうですな」とまるで他人事のように笑われた。
「そうですなって……」
「それが御仏の思し召しならば、拙僧は従うのみにございますよ。こうして、今日の糧を頂いただけでも、むしろありがたいと……」
もちろん、言っている事は理解できなくもないが、俺としては何だかもどかしい思いがした。しかし、果たして何ができるのか、その事を考えていると藤吉郎が提案した。それならば、しばらく我が家に逗留して、働いてはどうかと。
「働くとは……?」
「炊事、洗濯、掃除などなど、下働きではありますが、当家に留まり働いては如何ですかな。もちろん、その分の賃金は支払いましょう」
そして、京までの旅費が溜まれば、あとは旅立てばいいのではないかと。
「如何であろうか?俺は、藤吉郎の提案は妙案だと思うが……」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えさせていただこうかと思います」
無人斎殿は嬉しそうに両手を合わせながら、藤吉郎の提案を飲んだ。ちなみに、給料はというと……食事付きで日給50文(6千円)だ。
「ただし、仕事を始めるのは体調が戻ってからでよい。今日の所は、部屋を用意したのでそちらで」
「何から何までかたじけのう存じます。では、お腹も一杯になりましたので、拙僧はこれにて」
その足取りを見る限り元気そうに見えるが、無人斎殿はどう若く見積もっても、50は遥かに超えているであろうお爺ちゃんなのだ。無理をさせる必要はない。
「あの者の事は、某にお任せを」
それに、藤吉郎がそのように言ってきたので、後の事は任せる事にした。
「ところで……茶の湯の授業を次郎三郎の屋敷で行うという、そなたの提案の事だが……」
「ああ、そういえば、無人斎殿の事があって、説明が途切れたままでしたな」
「そうだ。だから、もう少し藤吉郎の真意を教えてもらえたらと思うのだが……」
帰り道の途中で交わしていた話は戻るが、三浦様からの催促がいつ来るかわからない事もあり、アイデアがあるのなら早めに知っておく必要があると思い、俺は藤吉郎に催促をした。改めて、「なぜ、次郎三郎の屋敷がよいのか」と……。
「まず、確認しますが……殿は次郎三郎殿に期待されているのですよな?例えば、この今川家で偉くなってもらいたい、とか……」
それは間違っていない。今から親切にしておけば、将来の見返りが大きいはずとか、そんな俗っぽい事を思っていないわけでもないが、それとは別に「兄貴」と慕ってきている弟分の立身を願わない筈もない。藤吉郎の問いかけに俺は頷いた。
すると、藤吉郎はニッカリと笑って、「これはそのお手伝いにございます」と言った。今川家の宿老たる朝比奈家と三浦家と縁を結ぶ機会を得るのだから、実現すれば、次郎三郎が飛躍するきっかけになるのだと……。




