第64話 信虎公は、本末転倒にため息を吐く
天文24年(1555年)5月下旬 駿河国駿府 武田信虎
本末転倒——。
屋敷に帰って、事の次第を三浦上野介(氏員)から聞いて、儂は呆れ果てた。ヘタクソなくせに、「交渉の場として茶室を使わせてもらいたい」と頼まれた時から何となくだが、嫌な予感はしていたのだが……え?茶の湯の技に感服したから、弟子になることにした?
「いやあ、本当に見事なお手並みだったし、茶も美味かったのですよ!」
はぁ……ため息しか出て来ない。あやつを……朝比奈備中守の秘蔵子と評判の松下大蔵少輔をここに呼んだのは一体何のためだったのか?利益を提案する、あるいは脅しをかけるなりして、我らの側に引き込むためではなかったのか!
それに……味方にできないのであれば、なぜその茶に毒を盛らなかったのか。そのまま帰したと聞いて、この阿呆にその理由とやらを懇々と問い質したいと思った。
「それで、どうするつもりなのだ?」
だが、それを言った所できっと何も始まらない。大事なのは今後の方針だと思い定めて、儂は上野介に訊ねた。茶の湯を習うというのなら好きにすればよいが、大蔵少輔をこのまま野放しにしても良いのかと。
放置すれば、必ず我らの前に立ち塞がる……そんな予感がした。
「いやあ、よく考えたら大蔵殿は馬廻衆指南役補佐。譜代でもありませぬし、そこまで警戒しなくても良いかと……」
ダメだ……。その答えを聞きながら、儂はこの阿呆に先がない事を悟った。もっとも、元々、家柄だけが取り柄のボンボンだから、その才気を全面的に信頼していたわけではなかったが、これは酷すぎる。
「わかった。ご苦労だったな」
それゆえに、儂はこれ以上の話し合いは無駄だと感じて、上野介との面会を打ち切った。
「父上、よろしいでしょうか?」
「六郎か。構わぬ、入るがよい」
さて、これからどうするか。上野介が立ち去った後もそのまま動かずに部屋で考えていると、倅の六郎が現れた。この子は、儂がこの駿府に来てから儲けた子であるが、晴信とは違って親孝行な子だ。こうやって、悩んでいるときは何かと気遣ってくれる。
「お悩みの筋は、上野介殿との関係を継続するか、否かにございますか?」
「ふふふ、よくわかったな。それで……そなたはどう思う?あれは家柄だけの阿呆でな……」
「ですが、家柄が重要視されるこの駿府では、その力を侮る事はできないかと」
そうだな……六郎の言うとおりだ。婿殿を天下人にして、その見返りとしてあの親不孝者の晴信から甲斐を取り戻すためには、上野介の力はまだまだ必要だ。手切れにする選択肢は浅慮ということだな。
「しかし、六郎。ならば、どうする?上野介が頼りにならない以上、松下大蔵は……」
「父上、その松下大蔵殿ですが、誠に我らの敵になり得るのでしょうか?」
「……と申すと?」
「噂では、龍の卵と。それ程の男ならば、我らの主張に耳を傾けてくれるのではありませぬか?」
そして、まずはその人となりを知るために、その懐に入る事を六郎は儂に提案した。具体的には……己が身分を偽って、下人になるなどしてあの屋敷の内側に入り込むと……。
「六郎、それは……」
「父上のご心配されるお気持ちはわかります!ですが……」
「いや、その役目だが……儂がやろうと思う」
「父上!?」
この六郎は、儂が全てを賭けて育てた息子ゆえ、その才気を信頼していないわけではないが、松下大蔵を見極めるのであれば、間に人を置かずしてこの目でしかと確かめたいと思った。
それに、儂は隠居の身の上。10日に一度、孫の氏真に兵法を教えるために館へ参らなければならないが、それ以外は基本的に暇なのだ。できない事はない。
「しかし……父上の顔はこの駿府では知る人が多いので、バレませぬか?」
「だったら、変装すればよいではないか」
そして、その手始めとしてこの頭を丸める。髭も剃る。あとは、身なりも旅をする商人の恰好に改めれば、恐らく気づく者も少なかろう。まあ、今川館に行くときは、カツラとつけ髭の用意は必要だろうが……。




