第57話 嘉兵衛は、未来の家康に懐かれる
天文24年(1555年)5月上旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
「兄貴!」
今日のお勤めが終わって、屋敷に帰りついたところに聞こえてきた少年の声。「ああ、また来たのか」と思いながら、俺はため息を零した。
竹千代改め、松平次郎三郎元信——。
先頃、今川館でお屋形様が烏帽子親となって元服したこの若武者は、臨済寺でひと悶着があってからというもの、何故か懐いており、こうして頻繁に我が家を訪れているのだ。
「お帰りなさいませ!」
「……ただいま」
なお、この次郎三郎は、のちの天下人・徳川家康、その人であるのだが……
「ちょっと、次郎三郎!引っ付きすぎよ!」
「ええ!いいじゃないか、とわ姉!夜には返すからちょっとくらい!」
「ちょっと位じゃないでしょ!わたしはあんたと違ってお泊りできないんだから、先に寄こしなさい!」
こほん……誤解のない様に言っておくけれども、俺はあの日もその後も、次郎三郎に手を出してはいない。この戦国の世の中では、衆道も紳士の嗜みというが、それは流石に……。
「だいたい、その貧乳で兄貴を誘惑できるのかよ!」
「あ゛っ!?」
あ……まずい。次郎三郎、それは言ってはいけないぞ……。
「このクソガキ!そこへ直れ!叩き斬ってくれる!!」
「はん!やれるもんならやってみろ!イノシシ女!!」
ガチでキレて追いかけるおとわと相変わらずの走りで逃げる次郎三郎。これで何度目だと呆れながら、俺は二人を放置して自室に向かう。すると、そこには藤吉郎と左近が待っていた。
「殿、お帰りなさいませ」
「うむ」
そして、二人から今日の報告を一通り聞く。藤吉郎は主におとわとの婚儀の準備を任せているのでその話を、左近にはその藤吉郎の護衛を任せているので、怪しい動きがなかったかを。
「婚儀は、この秋にと関口様よりお言葉がありました」
「おお、そうか!」
「それで、殿と一度段取りを確認したいと……」
藤吉郎は、関口様より預かったと書状を差し出した上でそう報告した。中を改めると、指定された訪問の日時は、5日後の昼過ぎと書かれてあった。
「喜んでお招きに預かると伝えてくれ」
「畏まりました」
「それで、次は左近だが……そちらはどうであったか?」
「相変わらず、藤吉郎殿の命を奪おうと、隙を窺っている浪人や忍びといった存在が確認されました」
何しろ、ここまで派手に動き回って多くの者たちの弱みを調べ上げたのだ。当然、恨まれもするだろうし、その情報を手に入れて悪用しようと考える者も現れるわけだ。
だけど……それらの不届き者たちは、五右衛門の手を借りながらも一人残らず始末したと左近は言った。
「おいおい……何もそこまでしな……」
「左近、バレないようにやったのだろうな?」
「それはもう……」
俺としてはそこまでしなくても良いような気がしたのだが、そんな甘い考えを藤吉郎は許してくれない。この世は殺るか殺られるかなのだから、手心を加えるわけにはいかないと。そして、その意見には左近もどうやら賛成しているようだ。
「藤吉郎……左近……」
「殿、そんなに心配なされずとも……」
「ああ、すまないな。だけど、俺にとって藤吉郎も左近も得難い家臣だ。それなのに、俺のために余計な恨みを買うのは……なんか心が苦しくてな」
「殿……ありがたき幸せにて。されど……」
その配慮は無用だと藤吉郎は言った。家臣なのだから、俺のために盾となるのは当然だと。
「へぇ……兄貴って、良い家臣たちに恵まれているんだな」
「次郎三郎……おとわは?」
「ああ、あの偽乳姉ちゃんなら、厠に籠っているよ……」
「厠?」
一体、それはどういうことなのかと思っていると、次郎三郎は答えた。今回ばかりは流石にヤバかったから、勝つために計略を用いたと。
「策?」
「……逃走の途中に台所を通り、さり気なく台の上に饅頭を置いたんだけど……」
なるほど。甘い物に目がないおとわだ。しかも、夕飯前だからお腹も減っているはずで……きっとそれを食べてしまったのだろう。
だけど、それを食べたおとわは忽ち真っ青な顔となり、厠に駆け込んだと次郎三郎は続けた。
「まさかとは思うが……毒饅頭とかじゃないよな?」
「ま、まさか!とわ姉は兄貴の奥さんになる方ですよ。今日みたいにからかう事はあっても、本気で命を危うくしたりはしませんって!」
その上で、次郎三郎は台所に置いたという饅頭の残りを差し出してきた。一見、おいしそうな饅頭のようだが……出処は関口家の瀬名姫だと言って。




