第55話 竹千代は、秘密の話を耳にして……
天文24年(1555年)4月中旬 駿河国駿府・臨済寺 松平竹千代
松下大蔵少輔——。
その名は以前、備中守様から聞いていたので知っていたが、馬廻衆の指南役補佐に就任するや、わずかひと月あまりで兎角問題が多いと噂だった四番隊、五番隊をシメたという鬼教官と……近頃評判だ。
ただ、三河から半ば拉致同然に連れて来られたこの哀れな人質には関係ないと思っていた。馬廻衆に選ばれるのは、今川家譜代の子弟のみなのだ。今日のように顔を合わすことはあったとしても、その辺りに転がっている石ころと同じように無視されると。それなのに……
「なあ!おかしいと思わないか!?どうして、なんで、俺を衆道相手に!?」
「うわあ!い、いきなりなんですか!びっくりした……」
自習の途中で転寝でもしていたのか、彦右衛門(鳥居元忠)は涎を拭いながら声を上げた。しかし、そんな些細な事などどうでも良く、俺は構わずに何があったのかを告げた。即ち、俺の顔を嘗め回すように見つめてきて、逃げようとした俺にこう手を伸ばして……と。
「おそらく、あの手に捕まっていたら、今頃俺は……」
そう考えると、急にお尻の穴が痛くなり、なぜだかそのままお腹が痛くなってきた。だから、自家製の胃腸薬を飲もうと懐に入れている印籠に手を伸ばしたのだが……
「あれ?ない……」
そこにあるはずの葵の印籠がどこにもなかったのだ。
「おかしいなぁ……確かにここに入れたと……」
「もしや、落されたのでは?」
「落とす?」
そういえば……急いで逃げたものだから、彦右衛門の言うとおり、途中のどこかに落した可能性はある。しかし、探している最中にあの大蔵殿と鉢合わせでもすれば……今度こそ、薔薇の世界へと導かれかねない。う~ん、どうしたものか……。
「ならば、別に良いではありませんか。印籠一つ失くしたところで、新しく買えば……」
「……あれは、祖父の形見だ。そういうわけにもいかぬだろう……」
結局、俺はそういう事情もあって、慎重に元来た道を戻る事にした。但し、ひとりというわけではない。彦右衛門も、念のためについてきてくれた。
「殿……あれでは?」
「あ、あった……」
ただ……そこは、先程逃げ出した部屋のすぐ真ん前であった。しかも、話し声が聞こえるので、未だ禅師と大蔵殿のお話は続いていると考えて間違いない。
だから、俺は足音を立てないように気を付けながら、落した印籠を回収する事だけを考えて近づいたのだが……
「……貴殿は朝比奈殿に天下獲りの道筋を示したそうだな。何でもその途中で本拠地を三河に移すとも……」
「ええ……駿府は東に寄り過ぎていますからね。尾張を得て、さらに京を目指すのであれば、まずは三河あたりに移られた方が……」
本拠地を三河に移す?駿府は東に寄り過ぎている?
それは、どう考えても……今川家の本拠地を三河に移すように大蔵殿は主張されているように聞こえた。そして、もしそのような事になってしまえば……
「殿?」
「しっ!」
兎に角、もう少し情報が欲しいと思って、俺は隣の部屋に入って……漏れ聞こえてくる会話に側耳を立てる事にした。
「……それで、そなたの人の好さはひとまず置くことにするが、三河・岡崎城を今川の新しき都にして、それからどうする?」
岡崎城を……今川の新しき都にだと!?馬鹿な!そんな事になったら、我ら松平の者たちはどこに行けばいいのだ!?
「殿……今の話は……」
「誰だ!そこにいるのは!!」
しかし、動揺した彦右衛門が声を漏らしたせいで、俺たちは禅師に見つかってしまった。
「竹千代か……」
そう呟かれた禅師の顔は、明らかに怒りに満ちていた。その様子からすると、どうやらこの後お仕置きは確定で、今夜の食事はありつけないようだと理解する。
「禅師、それに大蔵少輔殿!」
だったら、毒を食らわば皿まで。俺は今の話について……一体どういうことなのかと二人に問い詰めた。
「どういうことって……」
「もしや、俺が手に入らなかったから、そのような嫌がらせを言われているのですか?だったら……この体を差し出しますので、どうか岡崎城はご勘弁を!」
なに……お尻が痛いのは一瞬。天井のシミを数えていたら、きっとすぐに終わるはずだ……。




