第6話 藤吉郎は、帰国の誘いを断る
天文23年(1554年)5月中旬 遠江国気賀 木下藤吉郎
話し合いの途中であったが、急に厠へ行きたくなったので、儂は嘉兵衛様に断ってから席を外して部屋を出た。
「それにしても、儂に稀有な才能がねぇ……」
はっきり言って、そんな風に言って頂いてとても嬉しい。亡くなられたご先代様も何かと可愛がってくれたが、どこか珍獣を観ているように面白がっていた風もあったし……儂はこれまで誰からも認められたことはなかったのだ。それは親であっても例外ではなかった。
だから、この先不安がないわけではないが、嘉兵衛様にこのままついて行こうと決めた。前にわけのわからない占い師の爺さんに、「お主の運気は西に開けておる」とか言われて、これまでずっと尾張に帰るかどうか迷って来たけど、これで決心がついた。
そして、厠から出て嘉兵衛様の下へ戻ろうとしたその時……宿の外で知っている男が手招きをしているのが見えた。幼馴染の五右衛門だ。
「なんだ、五右衛門じゃないか。こんな所で何しているんだ?」
「何しているんだ、じゃねぇだろうが!おまえが来てくれと手紙を寄こしたから、尾張からこの遠江までやって来たというのに、そのおまえはすでに頭蛇寺城から去ったというし!」
「あ……そういえば、そうだったな。すまん、すまん」
3か月ほど前だったか、あまりにも松下家の連中から苛められて悔しかったから、あの頃は尾張に帰る前に一泡吹かせてやろうと思っていたっけな。そう……味噌汁に毒キノコの粉末でも混入して、文字通り口から泡を吹かせてやろうと。
「それでどうする?何だったら、今からでもそいつら皆殺しにしてきてもいいんだが……」
「それには及ばないよ」
あいつらには、嘉兵衛様が一度罰を与えてくれたし、全員をクビにしてでも儂を守ると言ってくれたお言葉だけでもう十分だった。だから、五右衛門の提案は有難いけど、断る事にした。それは嘉兵衛様のお心に反していると思って。
「だけど、頭蛇寺城で聞いたけど……おまえが仕えている松下様は浪人になったんだろ?これからどうするのさ」
「嘉兵衛様なら、明日にでも井伊家にお仕えする事になっているから大丈夫さ」
「井伊家?……ああ、この辺りを治めている田舎領主か……」
まあ、そこは確かに不安がないわけではないが、ついて行くと決めたからには黙って従うまでだ。しかし、そんな決意でいる儂に……五右衛門は懐から1通の書状を取り出した。
「これは……」
差出人の名前を見ると……そこには、生駒家の吉乃様の名が記されていた。但し、あて先は儂ではない。兄君の八右衛門様宛だ。
「藤吉郎……吉乃様が3年前に嫁がれた事は知っているよな?」
「ああ……確か、土田弥平次とかいう侍の家に嫁いだはずだよな」
「だが、あまり上手くはいっていないらしい。子ができないこともあってか……毎日いびられて、時には暴力も振るわれているとかでな」
その光景を想像して、儂は頭がクラッとした。儂ら貧しき者たちを差別するわけでもなく、食事を与えてくれたり、読み書きを教えてくれたまさに菩薩様のようなお方を……どうしてそのような目に遭わせるのか。怒りが次第に込み上げてきた。
「それでだ、藤吉郎。八右衛門様は吉乃様を取り返すために、策を練られている」
「策……?」
「即ち、土田弥平次の暗殺だ」
「!」
なるほど……なぜ、五右衛門がこのような話をするのか。ようやくその真意が理解できた。つまり、その土屋を殺すにしても、生駒家と無縁な者を使いたいというわけか。そして、数がいるから儂のような者にも声をかけてきたと……。
「あとな、この話の裏には『うつけ』がいる」
「うつけって……あの織田三郎(信長)か?」
「……上手く行った暁には、召し抱えてくれるそうだ。すぐには無理だが、いずれ士分にも取り立てるともいっているらしい」
士分……それは、確かに悪い話ではない。
「だから、どうだ。おまえもこの話に乗らないか?」
五右衛門の誘いは、非常に魅力的だと思う。きっとひと月前であれば、何の迷いもなく承知していたであろう。しかし、儂は首を左右に振った。
「どうして!こんなおいしい話は滅多にないし、それにおまえだって吉乃様に恩があるだろ?」
「確かに吉乃様には恩がある。だが……今の儂は、嘉兵衛様の家臣だ。裏切るつもりはない」
儂の頼みでここまでやって来て、こうして良い話を教えてくれたことには感謝するが、そう告げることに迷いはなかった。




