第51話 嘉兵衛は、新しい職場で名乗りを上げる
天文24年(1555年)3月上旬 駿河国今川館 松下嘉兵衛
「お屋形様のおなぁりぃ!」
小姓が告げた大音量のその声に、中央に座る俺も左右に侍る重臣方も、一斉に首を垂れる。すると、足音は左程聞こえなかったというのに、「面を上げよ」という静かな声が聞こえた。
「松下嘉兵衛之綱と申します。麗しきご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じまする」
「うむ、大儀である」
その視線の先にお座りになられている義元公は……前世でイメージづけられたお公家さんというわけではなく、だからといって武将かと言えばそうではなく、どちらかといえば高僧といった印象を初対面の俺は抱いた。
そして、その義元公にこれよりお仕えするにあたって、俺は『元』の片諱を賜った。しかも、『大蔵少輔』という受領名付きで。
「松下大蔵少輔元綱……しかし、文官と聞いていたが、余の馬廻衆に加わるそうだのう?」
「はっ!精一杯、務めさせていただきまする」
義元公は「そうか、そうか」と笑いながらここで退席されて、入社式はこれにて終了。あとは、上司となる一刀斎殿と……馬廻衆を束ねる重臣・浅井小四郎殿が残られて、俺にこれからの予定を説明してくれた。
「大蔵殿には、四番隊と五番隊の指導をお願いしたく……」
小四郎殿の話によれば、義元公の馬廻衆は百名で1隊を編成し、それが5隊集まって構成されているという。そして、その隊の番号が若い程、精鋭という事らしい……。
「つまり、某が受け持つのは落ちこぼれたちというわけですか……」
「まあ、それでも譜代のいい所から次男、三男を集めていますからな。落ちこぼれといっては何かと触りがありましょうが……」
それでも、小四郎殿は、その者たちに能力がない事は否定しなかった。その時点で、何だか前世の悪しき思い出が蘇ってくるというものだ。
ちなみに、一番隊から三番隊への指導は、一刀斎殿が受け持つらしい。
「それで、どうする?無理だというのであれば、どちらか片方を俺が受け持っても良いが……」
「いえ、それには及びません」
何しろ、おちこぼれたちの更生作業は、前世ですでに経験済みだ。できない事はないと思って、俺は一刀斎殿の配慮に感謝しつつ、申し出を断った。
「そうか。ならば、大蔵殿にお任せしましょう」
こうして話がまとまったところで、俺たちは早速、職場となる二の丸へと移動した。聞けば、毎日交代でこの場所に2隊が詰めて、片方が城の警備、片方が鍛錬に励むらしい。
そして、今日はというと……四番隊が城の警備、五番隊が鍛錬の日という事だが、俺が来るという事で全員そこに集めているようだ。
「松下大蔵少輔殿だ。これより、そなたたち四番隊と五番隊の指導に当たられる……」
ただ、流石は落ちこぼれ共だ。馬廻衆を束ねる小四郎殿がこうして話されているというのに、誰も聞いている様子を見せていない。ある者は同僚と碁を打ち続け、ある者は通りがかった女中にチョッカイをかける。さらに……何があったかは知らぬが、殴り合いをしている者さえも……。
「小四郎殿……」
「ま、まあ、こんな感じではありますが……大蔵殿、後はよろしくお願いしますね」
いや、よろしくってなに……と思ったが、小四郎殿はもうこれ以上関わり合いたくはないとばかりに足早に立ち去られた。その姿は、前世のネズミ教頭と重なった。
「まあ、どうしても泣き言が言いたくなったら、訪ねて来い」
「そう言って……本当に訪ねて行ったら、『気合が足らぬ』と足腰立たなくなるまでしごかれるおつもりでしょう?」
「あはは……そのとおりだ」
そして、一刀斎殿も俺の肩をポンポンと叩いて、その後に続かれた。ならば、もう腹を括るしかない。
「おい、てめえら!静かにしろ!!」
もちろん、大きな声でそう怒鳴りつけたところで、こういった連中が鎮まるはずがない事は承知している。だから、俺に従わなかったらどうなるか、見せしめとして手近なところで碁を打っていた二人の頭を思いっきり蹴飛ばした。
「何しやがる!」
「人の言葉が理解できないのだから、体で覚えてもらおうと思ってな!」
「このやろう!」
あはは、そうだ。これだよ、これだ。突っかかってきた連中を20人ほどボコボコにして、前世の赴任先でやったように、俺は高らかにもう一度自己紹介を行った。
「俺が貴様らの教官・松下嘉兵衛だ!その痛みと共に覚えておけ!!」
あ……そういえば、今日から嘉兵衛じゃなくて大蔵だった。




