第50話 嘉兵衛は、駿府へ旅立つ
天文24年(1555年)1月下旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
およそ10日余りに及んだ備中守様の井伊谷滞在は終わりを迎えて、いよいよこの城を発たれる時がやって来た。帰りの一行にはもちろん、俺や藤吉郎、それに新たに家臣となった左近も加わることになる。
「左近、あばら骨の具合はどうだ?」
「大丈夫です。唾を付けとけば治るらしいので、問題ないでしょう」
「いや……痛かったら休憩取ってもらうから言うんだぞ?」
このように、あまりにも脳筋な事を言うので、『三成の過ぎたる者』という後世の評判は、実は眉唾物じゃないかと少し疑いつつあるものの、それでも俺はこの左近に期待して100石の禄を与える事にした。
その事を告げた時、「それって……もしかして、夜伽の相手を……」などと言い出したから全力で否定したが、おとわに知られて「それ以外にないでしょ!この浮気者!!」……と泣かれて、あれは本当に大変な目に遭った。うん、次から気を付けよう……。
「嘉兵衛様、但馬守様がお見えに」
なお、左近への加増に合わせて、藤吉郎には200石を与える事を伝えている。こちらは、左近のように大騒ぎしなかったが、最近は何かとおとわの侍女となったあかねと親密になろうとしているらしく、今、お見えになられた但馬守殿の知恵を借りているようだ。
「色々とこれまでお世話になりました」
「いや、こちらこそ。本当にお世話になりました」
ちなみに但馬守殿は、「もう恋なんてしない!」などと言っていた割に、クリスマス・パーティーで相方となったお奈津殿と近頃何かといい感じになっているようだ。昨日は二人で気賀に出かけていたと、藤吉郎から聞いている。
「それでだ。これは俺からの餞別なんだが……」
ただ、差し出されたその包みを開いた俺は、言葉を失った。なぜなら、そこにあったのはあの日、戯れにラフ画として描いた『アブない水着』であり、なぜこれを餞別に渡されるのか、全くもって意味が分からなかったからだ。
「た、但馬守殿……これは?」
「いやな、初めは普通に安産祈願のお守りをと思っていたのだが……」
但馬守殿は苦笑いを浮かべながら続けた。「それでは芸がないのでは?」……とお奈津殿が言い出して、それから話が盛り上がった末に、より実用的なこれになったと。
「確かに実用的ではあるかもしれないが……」
「……嘉兵衛殿、わかっている。俺だっていくら実用的でも『これは流石に』とは思っているのだ……」
「但馬守殿……」
「だけど、お奈津殿の楽しそうな顔を見ているとな、俺にはどうしても止める事ができなかった。だから……何も言わずに受け取ってくれ……」
まあ……おとわが果たしてこれを着てくれるのかという問題はあるが、あって困るようなものではないので、俺は「わかった」と言って、これを受け取る事にした。あとはこれをきっかけに二人の関係が上手く行くことを願うのみだ。
「では、俺たちはそろそろ……」
「嘉兵衛殿も、藤吉郎も元気でな」
ここ井伊谷にやって来てからおよそ8か月。色々あったけど楽しかったなと、但馬守殿の顔を見ながら改めて思い出して……それでも、先に進むために別れを告げると、俺たちは集合場所である大手門に向かった。
まあ、今生の別れではないし、いずれまた会う機会はあるはずだ……。
「嘉兵衛!」
そして、もうすぐ大手門という所で呼び止められて振り返ると、そこにはおとわの姿があった。侍女のあかねと共に、彼女たちも一行に加わり、この後駿府を目指すことになる。そのため、二人とも旅装束に着替えて俺たちを迎えた。
「どう?似合っているかしら」
「ああ、もちろん」
旅装束に似合っているも何もないと思うが、それを口にすれば確実に機嫌を損ねてしまうから、敢えてそのように答えた。その上でこの誤魔化しがバレないようにと右手を差し出した。
「さあ、いこうか」
「うん」
その先に見えるのは、殿や次郎様、それに和尚様を筆頭として井伊家の皆さんの姿だ。方久や手がけた事業に関わった領民の姿もあった。
そんな中に向かって、俺とおとわは手を繋いで進んでいく。皆に別れを告げるために。
「みなさん、本当にお世話になりました!」
「二人とも、元気で!」
「駿府でも頑張って!」
「子作りは結婚してからな!」
……暖かい言葉の中に、一部冷やかしも混じっていたけれども、そんな井伊谷を俺たちは後にして、いよいよ駿府へ旅立つ。
(第1章 遠江・旅立ち編 完 ⇒ 第2章 駿河・立身編へ続く)




