第49話 一刀斎は、嘉兵衛に思う
天文24年(1555年)1月中旬 遠江国井伊谷城 伊東一刀斎
松下殿が退席した。あとには、署名を終えた誓紙を残して。今日はもう世話役の必要はないと朝比奈殿が言われたから、きっと今頃家路についているだろう。
そして、一つ空いた席に目を向けて、残されたそれを折りたたみながら朝比奈殿は俺に訊ねた。その松下殿を見てどう思うか……と。
「そうですな……些か、素直なお方かと」
すると、朝比奈殿は笑いながら、「そのとおりだ」と俺の意見に同調した。何が素直なのかといえば……そもそもの話、何もこの場で言われるままに誓紙を差し出す必要などどこにもなかったのだ。折りたたんだ誓紙をひらひらさせながら、朝比奈殿はため息交じりに呟く。
「まあ……儂にとってはこうして満足のいく結果を得たわけではあるが……」
例えば、ひと晩じっくりと考えてから回答すると言っても、朝比奈殿は拒むことができなかっただろうし、家禄の交渉だって……実を言えば、2千石までならば、上積みの余地は残っていたのだ。誓紙を差し出すにしても、その辺りの事を確認してからでも遅くはないわけで……。
「しかし、それだけに信じられるお方ともいえるのでは?」
「そうともいえるかもしれぬが、こうも素直だとな……迂闊な言動で墓穴を掘る可能性も考えられる」
朝比奈殿はそう言われながら、松下殿が今川家の天下獲りに関して具体的な計画を示したことを教えてくれた。それによると、尾張を平定したのちに本拠地を駿河から三河に移すことも含めて、その全容をご子息の左京殿に漏らされたと。
「それはまた、随分な構想ではありますが、迂闊ですな……確かに」
この戦国の世、父と息子の考えが一致しないという事などは往々にしてある話だ。それなのに、何の疑いを持たずにそのような大事を漏らすとは……どこぞの平和な国からやって来たのではないかと疑いを抱くほどに、何と呑気な事かと呆れるばかりだ。
ただ……その一方で思う。そのような現実に即した提案をできる才能は稀有であるとも。それはどうやら朝比奈殿も同じようで、駿府に行ったら松下殿を雪斎禅師の下へ通わせるとも言いだした。
「雪斎禅師の下へ……ですか?」
「あれほど性根がねじ曲がっている坊主はそうそうおらぬからな。交われば、多少は腹も黒くなろう」
「……えらい言われようですな」
雪斎禅師とは以前駿府でお会いしたことがあるが、まさに狸親父ともいえるお方であった。「なんじゃと?」……と、不意にその不機嫌そうにお怒りになられる顔が思い浮かんで、朝比奈殿と大笑いしたが、どうやら松下殿を通わせるという話は冗談ではないらしい。
「……ということは、朝比奈殿は松下殿をいずれ今川家の軍師に、とお考えで?」
「先々の事はわからぬし、おそらくそれまで儂は生きていないから確約はできぬが……」
しかし、それでも否定はしない。朝比奈殿の中ではきっと、そういうおつもりでいるのだろうと俺は察した。
「それで……そろそろ本題に。某に何をお求めで?」
「うむ……」
事前に聞いていた話によれば、現在の馬廻衆は気位だけが高いお坊ちゃんぞろいということで、指南をするにしても厳しく行えば、何かと厄介な事になることは想像できる。
すると、朝比奈殿は言った。そういうお坊ちゃんたちへの指導を行うにあたっても、きっと松下殿は人の好さを発揮するだろうから、その場合は俺に窘めてもらいたいと。
「痛い目に遭って覚えることもあるかと思いますが……」
「それで、あれほどの才能が潰されてはかなわぬ。甘いことを言っているのは承知しているが、どうか協力してもらえぬだろうか?」
その答えに思わず、何と過保護なことかとため息がこぼれそうになるが……確かに朝比奈殿の言う通りかもしれない。俺は「わかりました」と答えて、協力することを告げたのだった。




