第39話 嘉兵衛は、義父より餞別を受け取る
天文24年(1555年)1月上旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
天文24年の年が明けた。ただ、前世と違って家でのんびりこたつに入って正月休みを楽しむことは、この戦国の世では許されていない。
「ブラック職場と呼ばれた学校でも、正月休みくらいはあったのになぁ……」
「嘉兵衛様?」
「いや、なんでもない」
あ……でも、よく考えたら、正月から生徒が酒を飲んで暴れているからと警察署から連絡が呼出しを喰らったこともあったから、う~ん……前世でも正月休みは不安定だったかな?
しかも、そういう時は必ず緊急職員会議が招集されて、「おまえの指導が悪いからだ」とか「わが校の名誉を貶めた責任をどう取るつもりか」とか、ハゲ校長とネズミ教頭にネチネチ責められて……ダメだ、思い出しただけで胃が痛くなってきた……。
「あの……具合が悪いようでしたら、登城を見合わせますか?」
「だ、大丈夫だ、藤吉郎。気にしないでくれ……」
いけない、いけない。前世は前世だ。あのハゲもネズミ男もいないのだから、気を取り直して登城しよう。特に、今の俺はこの城のお姫様であるおとわと婚約した身の上だ。迂闊な真似をする事は許されない。
ただ、お城に上り、広間に続く廊下を歩いているうちに違和感を覚える。何やら騒がしく……そして、それは目的地に近づくにつれて次第に大きくなっていく。
「おお、嘉兵衛殿……」
「新年あけましておめでとうございます。それで、但馬守殿……これは一体?」
今日の予定としては、この後、殿がお成りになられて皆から新年の挨拶を受けて、重臣たちは別室で会議している間に、残った者たちはこの広間で宴会に突入する事になっていた。ちなみに俺はといえば、年末付で勘定奉行を免じられたので、後者の予定となる。
ただ、但馬守殿は俺に予定を変えて、重臣たちの会議に参加してもらえないかと打診してきた。理由としては……駿河から来る使者というのが有名な雪斎禅師と並ぶ今川家の宿老、朝比奈備中守(泰能)様ということで……。
「うそでしょう……何でそんな大物がこの井伊谷に……」
「わからん。使いの者が言うには、この年末年始を居城の掛川で過ごしたから、ついでだと……」
「まあ、額面通りに受け取れませんよね。ちなみに、和尚は何と?」
もしかしたら、あの腹黒和尚の事だから、裏でまたよからぬ事を企んでいるのかと疑うが……但馬守殿は「和尚も困惑している」と答えた。そして、それゆえに俺の意見が聞きたいとも。
「ならば、仕方ないな……」
ため息を一つ吐いて、俺はまた厄介ごとと理解しつつも言われるままに但馬守殿の要請を引き受ける事にした。すると、そろそろ殿がお出ましになられるのだろう。騒ぎは次第に鎮まり、皆、各々の席に着いた。当然、俺たちも。
「皆の者、面を上げよ」
「「「「「ははっ!」」」」」
「今年は、亀之丞の元服と奥山家のひよ殿との祝言が執り行われるめでたき年だ。しかも、勘定奉行を務めてくれた松下嘉兵衛の働きにより、我が井伊家の財政はかつてない程に好転しており、この新しき年は必ず我らにとって飛躍の1年になるであろう」
結果が出るのがまだ先である椎茸栽培や硝石造りはともかく、澄酒の販売による利益は井伊家に大きな利益をもたらし始めている。俺が残したマニュアルに沿って計画的な財政管理を行えば、あと2年か3年もすれば累積赤字を全て解消し、帳簿は黒文字で埋まる事だろう。
「よって、この後の宴ではいつもよりも豪勢な肴と澄酒を用意した。皆で楽しむとよい」
「「「「「おおっ!」」」」」
「だが、その前に儂はこの結果を残してくれた嘉兵衛を讃えたいと思う。嘉兵衛、前へ……」
「え……?」
「嘉兵衛」
「は、はい!」
いや、これは何も聞いていないのだけど……と思ったけれども、こうして呼ばれた以上は前に出るしかない。頭を下げて、お言葉を待つことにした。
「これまでの忠勤を讃えて、儂より褒美を与える。左文字の刀だ」
そのお言葉が出た瞬間、この広間がざわついた。当然だ。その刀は井伊家伝来の家宝にして、殿の愛刀なのだから。
「どうした?要らぬのか」
「ありがたく頂戴いたします」
それだけに、絶対大切にしようと思って、俺は義父からの餞別を受け取ったのだった。




