第36話 方久は、藤吉郎に惚れ込む
天文23年(1554年)12月下旬 遠江国井伊谷 瀬戸方久
松下様も底知れぬお方ではあるが……それを言うならば、この人も同じだ。
『方久殿!釜じゃ、大きな釜が欲しい!別に新品じゃなくて、使い古しでも構わぬし、そなたの言い値で構わぬから、3日以内に用意して、井伊谷に持ってきてくれぬか!』
木下藤吉郎殿——。
一方的に捲し立てて言い放ったかと思ったら、もう目の前から消えていて……本当に可笑しな御仁だ。そうそう、この方は確か前に、うら若きとわ姫様の裸体像を描いてくれと言っていたかな?
あの時は、まともなお方ではないと思ったな。しかも、描いてくれと言いながら、その下絵は物凄く精巧で、儂の出番はあるのかとも言ったけど……。
『いや、こういったヤバい橋は、みんなで渡った方が安全じゃろ?』
ふふふ、今思い出しても意味が分からない面白い答えだったな。しかし、儂は直感的に思ったわけで……この方はいずれ物凄い事を成し遂げるから、縁を大事にしなければと。
「おお、来られたか。それで……頼んでいた釜は?」
「こちらに」
だから、今回もこの無茶な要請に全力で答えたわけだ。早速、荷車に掛けていた覆いを外して、大釜を木下殿に引き渡した。
「かたじけない。これでどうやらお役目を果たせそうだ」
「それはようございました。ところで……この大釜、一体何に使われるので?」
ちなみに、この大釜は美濃の斎藤山城守様が逆らう者をこの中に入れて、釜茹でにしたという血塗られた逸品だ。今年の初めごろに隠居されたとのことで、斎藤家から売りに出されたが、買い手がつかずに気賀まで流れてきたらしい。
だから、もしかしてこの井伊家でも同じような使い方をするつもりなのかと思っていると……
「実は、この大釜で洗濯をしようと思ってな」
「洗濯……ですか?」
その真意が理解できずに、木下殿からの説明に耳を傾けたのだが……要は、澄酒造りに携わる主婦たちの家庭における負担を軽減する事が目的という事で、井伊家直営の洗濯屋を開業するという事だった。
「湯を沸かしてな、その中に灰汁を溶かして着物を放り込み、それを木の棒でかき混ぜるのよ」
「つまり、大釜はその為に使うと?」
「そうだ」
そして、その後は基本的に外で天日干しするそうだが、汚れが落ち切っていないものについては、個別にたらいでもう一度洗うという。その時に使う物として……木下殿は儂に少し変わったまな板のような物を見せてくれた。
「これは……?」
「洗濯板だ。頭蛇寺城で小者として働いていた時に儂が考案した物よ。これを使えば、通常の手揉み洗いよりも効率よく汚れが落ちるという優れものでな!」
聞けば、この表面の波打っている箇所にゴシゴシと着物を擦るそうで……「売るつもりならば、利益の3割はくれよな?」と囁いてきた。むむむ、帰ったら要検討だな。
「木下殿、そろそろ……」
「ああ、そうだったな。方久殿、すまぬが次の予定があるから、儂はこれにて失礼しよう。代金は……ほれ、そこに用意したから持って帰ってくれ」
「え……い、いや、流石にこれは多すぎるというか……」
何しろ、いわくつきだったから、この大釜の仕入れ値はわずか10文(1,200円)という所だ。それなのに、荷車に乗せられている銭はそれよりもはるかに多すぎる。聞けば、10貫(120万円)の銭を用意したという事で。
「まあ、そう言われるな。これは、儂からの無茶な頼みを聞いてくれた男気に対する報酬だと思ってくれ」
「男気に対する……報酬ですか?」
「ああ、そうだ。そして、何より……そなたへの先行投資でもある」
なるほど。近々、駿府に行かれると聞いていたから、今後の付き合いはどうなるのかと心配していたのだが、先程の洗濯板の事といい……どうやら、木下殿は儂との繋がりを続けられたいという事か。ならば、否はない。
「……わかりました。ならば、有難く頂戴いたしまする」
「そうしてくれ」
ニッコリと笑みを見せるその顔に、儂は自分が引き込まれていくような感覚を覚えた。男が男に惚れる……もちろん、儂には衆道を嗜む趣味などないが、それでも今後も力になりたいと思わせるほどに、木下殿は魅力的であった。




