第35話 嘉兵衛は、クリーニング屋の開業を提案する
天文23年(1554年)12月中旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
城に帰った俺は、早速クリーニング屋の開業について、但馬守殿に相談した。必要なのは人員と予算と設備だが、いくら目途は立っていると言っても、そのいずれも俺の権限だけでは進めるわけにはいかない。
「予算はおとわの玉薬代が来年より不要となりますので、それを宛てればよいと思います。あと、人は澄酒造りに関わっている人員から割くか、あるいは別に雇ってもいいでしょう。こちらについては、予算さえ確保できれば、何とでもなります」
場合によっては、この井伊谷に拘らず、気賀や他国から募集してもいいのだ。その辺りは、方久に頼んでも良いと思う。洗濯物を沸かした湯で洗うために、大釜を買おうと思っているのだ。何なら、合わせて頼んでもと。
「それで、如何でしょう。この件、但馬守殿からも殿、並びに重臣方にお話しいただけないでしょうか?」
この井伊家の政を決定する最高幹部会に参加する資格は、俺には与えられていない。一応、勘定奉行ではあるものの、まだ就任して日が浅いし、それにもうすぐ退任する事が決まっているわけで。
しかし、そういう事情もあって、こうしてお願いしたわけだが……但馬守殿はなぜか苦笑された。
「但馬守殿……?」
「いや、反対ではありませんよ。むしろ、井伊家のために最後まで考えて頂けるとは、感謝の気持ちしかありません。ありませんが……」
「が?」
「でも、よろしいのですか?」
「何がですかな?」
「ただでさえ、引継ぎで忙しいのにこの案件に取り掛かれば……おそらく、嘉兵衛殿が望まれていた姫様とのチチクリマス?……でしたか。お流れになるのでは?」
「あ……」
それもそうだ。今日もこうして午前中をこの案件に費やしたので、その分巻きで引継ぎ業務に励まなければならないのだ。但馬守殿の言われる通り、このままでは仕事が片付かずにお流れになってしまう……。
「まあ、乳繰る機会はこの先もあるでしょうし、嘉兵衛殿が覚悟をお決めになられたのでしたら、某からは何も申しませんが……」
「い、いや……恋人と過ごす初のクリスマス。それは何としても実現したいというか……」
「そうでしょう。もっとも、恋人のいない某としては……一緒に残業地獄というのも悪くはありませんけどね。ふふふ……何がチチクリマス?ホント、ふざけるなと言いたい所です」
「た、但馬守殿……?」
ダメだ。本当はクリスマスなのだが、それを指摘する余裕もない程に、但馬守殿からは黒いオーラが漂っている。俺も前世でクリスマスやバレンタインとかでは、毎年同じ経験をしていただけに、少し浮かれ過ぎていたのかもしれないと悟った。
「あ……すみません。心の声が漏れてしまいました」
「いえ……」
「それで、真面目な話として改めて確認しますが、どうします?某としては、方針を示して頂いただけでも十分だと思いますし、他の案件共々、先送りでも良いのではないかと思いますが……」
「それは……確かに、但馬守殿の言われる通りではありますが……」
それでは何だか、心の内がモヤモヤする。そして、そんな状況でおとわとの初クリスマスを楽しめるのかと言えば、何だか微妙だ。それにこの件は、そもそもの話、そのおとわからの依頼でもあるわけで……。
「嘉兵衛様、口を挟んでもよろしいでしょうか?」
「なんだ、藤吉郎。言いたいことがあるのなら、遠慮なく申してくれ」
「では、申し上げますが……そのお役目ですが、某に任せて頂けないでしょうか?」
「藤吉郎に?」
一体いきなり何を言い出すのかと思ってその理由を訊ねると、藤吉郎は藤吉郎で、あのお光さんにいい所を見せておきたいという事らしい。
「えぇ……と、おまえ、あのお光さんが好きなのか?」
「あ……はは、まあ……その通りでして」
思わず俺は但馬守殿を見たが、但馬守殿も驚いていた様子で、どうするのかとこちらを見ているのがわかった。
しかし、そういう事情ならば、任せて見てもいいのかもしれない。俺は藤吉郎が担当を引き継ぐ事を前提に、もう一度但馬守殿に協力を要請した。
「わかった。そこまで申されるのであれば、早速殿に言上して、評定で諮って頂くようお願いしよう」
「お願いいたしまする」
ただ、ここまで決めておきながら、俺は少し不安になった。藤吉郎がそちらに掛かり切りになれば、引継ぎ作業の手助けを期待する事ができないわけで……やっぱり、クリスマスも残業になるのではないかと。




