第30話 直盛は、あり得た未来を夢想する
天文23年(1554年)12月上旬 遠江国井伊谷城 井伊直盛
「いてて……そっとじゃ、もっとそっと貼ってくれ……」
嘉兵衛と一騎打ちに及んだその日の夕方、儂はどうしても腰が痛くて、妻の千賀に和尚秘伝の貼り薬を貼ってもらっていた。どういう理屈かはわからぬが、打ち身や捻挫にはとってもよく効くのだ。もっとも、とっても臭うけど……。
「ホント、年甲斐もなく何をやっているんだか……ああ、くさっ!」
鼻をつまみながら千賀はそう言って苦笑いを浮かべるが、男にはどうしても避けぬときがあるのだ。特に娘を嫁に出す時は……最大の障害にならねば、と。
「だから、後悔はない!」
「そうですか、そうですか。それなら別にそれでもよろしいのですけど……殿が太刀打ちできなかったなんて何者なんですか、嘉兵衛とやらは?」
「わからん。和尚も同じ事を思って訊ねたそうだが、『おとわのお婿さん』……とふざけたことを言って、はぐらかしたそうだ」
「まあ!面白いことを言う方なのですね、その嘉兵衛とやらは」
何が面白いものか。くそ……儂のおとわを攫って行こうとするなんて、鬼か、それとも悪魔か!ふざけるなと叫びたいし、やけ酒も飲みたい!
「あ……言っときますけど、今夜はお酒、ダメですからね?」
「ど、どうしてだ!?」
「だって、これだけ痛めつけられたのですから、飲めばきっともっと痛くなって眠れなくなりますよ?」
それでもいいのですかと言われたら、諦めるより他はなかった。明日は会議なのだ。途中で居眠りなどするわけにはいかないわけで。くそ……おのれ、嘉兵衛め!覚えていろよ!!
「しかし、こうも強いのでしたら、要らぬお世話でしたわね。関口家に鍛え直してくれと頼んだのは……」
「そうだな。この戦国の乱世、おとわを守り抜いてもらうためには頭がいいだけでは頼りないと思って手を回したが……誠に余計なお世話だったようだ」
あの強さならば、駿府に行って関口様の軍に放り込まれても、何も心配はないはずだ。そんなに時間がかからずとも、与えられた課題を乗り越えて、おとわと一緒になることだろう。
「いや……何なら、もっと難易度を上げるか?例えば、お屋形様直属の馬廻衆(親衛隊)に放り込んでもらうとか」
「それは良いかもしれませんわね。その方が出世も早そうですし」
よし、腰の痛みが取れたら、和尚に相談してみよう。儂を怒らせた報いを受けるがいいのだ。 わははは!!
「ああ、でも、何だか悔しいな……」
「殿?流石に未練がましくはございませんか。おとわは……」
「別におとわの事で悔しいと言ったのではない」
「え……?」
「思わぬのか?松下嘉兵衛……あれほどの人物がもし、おとわの婿としてこの地に残り、井伊家を継いでくれたなら……と」
その場合は、亀之丞と但馬守を左右に従えて……もしかしたら、一国の大名、あるいはもっとこの井伊家を大きくしてくれるかもしれない。そう思うと、ここで今川に取り上げられるのは、本当に悔しかった。
「それに、あの藤吉郎という男も中々の者だぞ。下賤の者と始めは侮っていたが……いつの間にか、この井伊領全体に奴の手が回っていて、今回のおとわに関する噂も、全部あやつの手によるものだと和尚が言っておったわ。まこと、油断ならぬ男だと!」
それゆえに、嘉兵衛と共にこの男が出て行くのは地味ではあるが確実に痛い。残ってくれたら、きっと井伊家の力になってくれたはずだった。
「ですが、殿」
「なんだ?」
「もし、一国の大名になろうとしても、その場合、今川か武田と戦わなければならないかと。勝てますか?嘉兵衛が例え文武共に優れた武将であっても、我が井伊家は1万石程度の身代しかないのですよ?」
そうだな……例え嘉兵衛が仮に関羽の生まれ変わりであったとしても、流石に1万石では戦えぬか。そう考えると、むしろ今川に送った方がいいのかもしれないな。あちらで出世すれば、おとわは幸せになれるわけだし。
「しょうもない事を言ってしまったな……」
「そうですね。叶わない夢でしたね……」
やはり、今夜は酒が飲みたくなったな。もう一度ダメもとで頼んでみるか……。




