第29話 嘉兵衛は、もう一つ屍を乗り越える
天文23年(1554年)12月上旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
月が改まってしばらくしたのちに、駿府からの返事は届いた。
「それで……関口殿はなんと?」
「おとわを養女に迎えることは承知した……と」
但馬守殿はその書状を俺に手渡しながらそう答えたが、何やら表情が渋い。どうしたのかと思って俺も中身を開いて確認すると……
「なに!?」
その続きとして綴られていたのは、「ただし、養女に迎えたからは、松下殿がその婿に相応しき人物であるかを試したい」と記されていた。具体的には、関口家のために一肌脱いで、その上で成果を挙げられたら結婚を認めると。
「一体何をさせられるのだろうな?」
「それは行ってからのお楽しみだそうだ。しかし、大丈夫ではないのか?お主ならば何でもできそうな気がするし……」
「但馬守殿……俺だって苦手な事の一つや二つはございますよ……」
例えば、医者じゃないので骨折を治せとか結核を治せと言われても、何もできないし、剣や柔道はできるけど、銃や弓の扱いは不得手だ。前におとわに教えてもらったけど、中々上達しなかったし。
「でも、まあ……やるしかないか」
「ああ、そうだ。我らはもう後には引き返せないのだからな」
ちなみにあれから、おとわの名誉を回復する噂は広まり、この書状を和尚に届けたら、我らのミッションはクリアーだ。あとは、手筈通りに亀之丞様はひよ殿と婚礼を挙げて、俺とおとわは迎えに来た今川の使者と共に駿府に向かう。時期は来年早々になる見込みだ。
だから、四の五を言わずに、この書状を和尚の下に届けに行った。しかし……
「嘉兵衛!きさま、よくもおとわを毒牙にかけおったなぁ!!」
そこには完全武装の殿が居て、抜刀して俺を待ち構えていた。
「和尚……これは?」
「いやはや、どうやらおとわがうっかり口を滑らせてしまったようでな。それで殿が大激怒なされて……」
「なるほど……」
はぁ……こうなるのが何となくわかっていたからこそ、あまり浮かれるなとくぎを刺していたのだが、どうやら無駄だったようで……
「どうしてもおとわが欲しくば、この俺の屍を越えて行け!」
流石は、同じ井伊家の血が流れているのか。和尚と同じセリフを吐いて、俺の前に立ちはだかった。かくなる上は、もう勝負を避けるわけにはいかなかった。
「言っておくが……儂は和尚とは違って武士じゃ!文官のそなたになぞ、負けはせぬぞ!!」
「はいはい」
ホント、この城の連中って、なんでこうも文官を侮っているのだろうか。文官がいるからこそ、破産することなく領地経営ができるというのに。
それに……そもそもの話、俺がいつ文官を名乗ったというのか?
「ぬお!」
振り下ろされる刃を、体を捻るようにして何度も躱して、隙を見て足を払った俺は、馬乗りになったところで腰に差していた扇子を喉元に突きつけた。もし、ここが戦場であれば、その首は失っていたであろうことを思い知らせて。
「うぬぬぬ……」
「こんな体勢で誠に申し訳ございませんが、どうかおとわを俺に下さい。お義父さん」
「だぁれぇがぁ!お義父さんだぁ!!」
「何度も言います。お願いします。降参して、俺たちの結婚を認めてください」
同時に、その喉元に突きつけている扇子に込める力を強めた。俺は真剣にお願いしているのだ。その想いだけは伝わるようにと。すると……殿は握りしめていた刀を手放した。
「くっ…参った」
「え……?」
「だから、参ったと言っている!わかったら、さっさと退け!儂を誰だと心得るか、この無礼者が!!」
そういえば、相手はおとわの父親の前に主君だったと思いだして、俺は慌てて飛び退いて、その場にひれ伏した。「調子に乗ってすみませんでした!」と詫びながら。
「全く……近頃の若い者は礼儀をわきまえておらぬというか。そう思いませぬかな、和尚」
「左様左様。特にこの男は、ですな」
二人揃ってえらい言われようである。だけど……
「嘉兵衛……約束だ。絶対におとわを幸せにしろ。よいな」
殿は苦笑いを浮かべながらも、最後にそれだけを言い残されて、この部屋から出て行かれたのだった。




