第232話 甲斐の虎は、いくさの結末に……
永禄4年(1561年)9月中旬 信濃国川中島 武田信玄
大蔵が政虎の相手を引き受けてくれたおかげで、儂は何とか窮地を逃れた。すると、そこに「お屋形様!」という声が聞こえた。視線を向けると、勘助が心配するように儂を見ていた。
「申し訳ございませぬ!上杉の強さを侮っていました。しかも、本陣を危険にさらしてしまうとは……」
生真面目な勘助は、ここで処罰を求めてきたが、儂は不問に付す事を告げた。
「ですが、それでは諸将に示しが……」
「上杉の強さを侮っていたのは儂も同じだ。それに、ホレ見よ。政虎は諦めて引き揚げていくぞ。飯富らも到着したし、手筈通り奴らの前に跡部や諸角の兵も奴らの行く手を阻むように動き始めたぞ。あとは予定通りに包囲殲滅すれば……」
そう、我らの勝ちだ。何も問題はない……はずだったが、上杉軍の前面に展開しようとした跡部・諸角の両隊はあっけなく打ち破られて、上杉軍の突破を許す結果となった。
「お屋形様……」
「う、嘘だろ?ほとんど、瞬殺じゃないか!一体、どういうことだ!」
やがて、この本陣に跡部大炊助と諸角豊後守が討ち死にしたと知らせが届いた。残兵は義信が収容して立て直しを図っているらしいが、追撃は不可能とも言ってきた。
気合が足りぬと叱責の使者を送ろうかと思ったが、戻ってきた大蔵に「足が痺れて動けないって気合が足りませぬな」と笑われて、思い直す事にした。そうだな……気合ではどうしようもない事を儂も思い知らされたばかりだったなと。
「それで、これからどうしますか?敵は善光寺まで逃げるようですが……追撃しますか?」
「いや、止めておこう。勘助、全軍に追撃無用と伝令を送ってくれ」
「畏まりました」
ああ、それにしてもまた勝てなかったな。今度こそ勝つためにあれこれと準備して、万全の体制で臨んだというのに勝てなかった。くそ……ああ、クソクソクソ!!!!
「申し上げます!」
「何だ!」
「穴山彦六郎様がお目通りを願っておりますが、如何なさいましょうか」
穴山……そうだ。奴だ、奴が持ち場を離れたせいで、我らは勝利を逃してしまったのだ。おのれぇ、許すまじ!
「お怒りなのは顔を見ればわかりますが、一先ず話を聞いた方が良いのでは?」
「大蔵!しかし、奴は……!!」
「人は石垣なのでしょう?ここで甲斐の有力者を怒りに任せて始末すれば、後々面倒な事になるのではありませぬか。始末しなければならないにしても、万人が納得できるように手続きは踏むべきかと……」
ふむぅ……確かに大蔵の申す通りだな。勘助も丁度戻ってきたし、会って言い訳を聞くことにするか……。
「通せ」
「はっ!」
そして、穴山彦六郎は儂の前に姿を現した。しかし、反省した態度は皆無で、挙句の果てには「勝ちいくさ、誠におめでとうございます!」……などと、わけのわからない事を言い出した。これには儂だけでなく、勘助も大蔵も唖然としていた。
「おや?某の申す意味がご理解いただけませぬか」
「そうだな。全くもって理解不能だ。そなたは、この状況のどこが勝ちいくさだというのか?」
「では、畏れながらこれより説明をさせて頂きまする」
彦六郎は懐より地図を広げて儂らに言った。上杉がこの地から逃げた以上は、この地図にある武田領は守られたと。即ち、これは勝ちいくさだと。
「しかし、お屋形様はこのいくさで上杉政虎を討ち取る事を望まれておりました。それこそが此度のいくさにおける勝利条件では?」
「いくさの状況が刻一刻と変わるように、目指す勝利の形も変わるかと存じます。政虎が逃げた今となっては、我らの勝ちはこの川中島における領土の確保にござろう。だから、某はそう申し上げたまでの事だ」
なるほどな……言っている事は理解できなくもない。だけど、こやつは理解できていない。それでは儂が納得できないという事を。
「わかった。そなたの申す通りだな。このいくさは正に勝ちいくさだ」
「おめでとうございます!」
「うむ……」
だから、こうして表向きは納得した態を装って、儂は決断した。この男を……始末する事を。武田家の未来のために。
「勘助……」
「はっ!」
そして、彦六郎と大蔵が下がった後に、儂は勘助に密命を下した。それは、穴山彦六郎を帰国後に始末するようにと。
「よろしいのですか?」
「構わん。人は確かに我ら武田にとって石垣ではあるが……支えにならぬ石は除かねば、やがて石垣全体が崩れて家は潰れる」
「畏まりました。では、忍びの者に……」
これで彦六郎はやがて急な病を発症して死ぬはずだ。あとは穴山家の家老共を買収して、儂の息子を養子入りさせよう。そうそう、あやつには弟もいたが、合わせて毒を飲ませれば……万事解決だ。




