第25話 亀之丞は、婚約破棄を断行する
天文23年(1554年)11月下旬 遠江国井伊谷城 井伊亀之丞
殿がおとわとお方様を呼びに行っている間、俺はひよ殿と共に静かにその時を待つ。この部屋に集まっているのは、南渓和尚とひよ殿の父上である奥山因幡守殿、中野越後守殿ら一門衆、それにそのお二方の派閥に属する主だった家臣たち。但馬守や嘉兵衛ら小野派の面々は呼ばれていない。
ただ、俺がこれから何をしようとしているのかは、城内に広まっている噂話から凡そ察しているのだろう。だから、誰も気まずそうにしてこちらを見ることなく、口を閉ざしている。腹黒い和尚でさえも……。
「皆、待たせたな」
そして、殿がおとわとお方様を伴い、上座に座られていよいよ始まる。口火を開くのは、中野越後守殿だ。
「昨今、城内に只ならぬ噂が広がっており、真偽を定かにするとともに今後の対策を話し合いたいと存ずる。そこで……まずは、亀之丞様にお訊ねしたい」
「はい……」
「誠に、ご幼少のみぎりに……とわ姫様から苛められていたと?」
「はい、相違ございません」
その瞬間、おとわの顔が「何を言っているのだ」と困惑したように歪んだのが見えたが、俺は構わず筋書き通りに続きを説明した。即ち、殴る蹴るは当たり前で、時には「軟弱者の婿は要らぬ!」と言って、崖から川に突き落とされたと。ちなみに、川に飛び込んだのは本当だが、突き落とされてはいない。
「な、何を言うのだ!我はそのようなことは……」
「そして……そのような某をひよ殿はいつも慰めてくれました。寄り添ってくれました。しかし、それがおとわにとっては気に食わなかったのでしょう。某が信濃に逃れた後、罠に嵌めて飯尾の若殿に囲われるように仕向けたと聞きました」
その瞬間、広間に居合わせた方々は騒めきだした。さらに追い打ちをかけるようにひよ殿が続けた。「亀之丞様からの手紙だと思って、指定された場所に行ったらそこに飯尾の若様が待ち構えていて……」と。
「それがとわ姫様が仕向けた事だと……若様はわたしに教えてくれました」
「ま、待て!我は全然知らぬ!そのような事は断じてしていない!!」
しかし、このようにおとわは抗議の声を上げるが……どなたの耳にも届くことはなかった。何しろ、嘉兵衛が来るまでじゃじゃ馬で、好き勝手な事をしていたと聞く。和尚でさえも庇い立てしなかった……。
「よって、殿には申し訳ございませぬが……おとわとの婚約破棄させて下さい。また、男としてひよ殿に責任を取らなければなりません。どうか、その上で我らの結婚をお認め下さい!」
「お願いいたしまする!」
ひよ殿と呼吸を合わせて、俺は上座におわす殿にお願いした。もし、これでダメだったならば、「それなら二人で信濃に落ちます」と告げるつもりだったが……返ってきた言葉は「わかった」だった。
「殿っ!?」
「……仕方あるまい。事の真偽はわからぬが、要するにだ。亀之丞はおとわとの結婚を望んでいないのだ。それなら、無理にさせても仕方あるまい。その方がおとわにとって不憫な結果となるだろうし……」
「で、ですが……」
「奥山もそれでよいか?ひよは亀之丞の正室に迎える。異存があれば、この場にて申すが良い」
「ございません」
そりゃあ、そうだ。この話がまとまれば、奥山家にも澄酒の利権の一部を回すことにしてあるのだ。拒絶するはずがなかった。
「和尚。結局、このような話になってしまったが……かくなる上は、如何すればよい?今川との関係もあるから、今更亀之丞を世子として迎え入れる事を止めるわけにもいかぬであろう?」
「御意にございますな。ですので……ここは、おとわに責任を取ってもらいましょう」
それは少し気の毒に思ったが、ここまで来てしまえば今更止めるわけにはいかない。すると、和尚は続けた。
「おとわには、尼になって頂きましょう。いずれにしても、このまま井伊の姫であらせられたなら、後日のお家騒動の種にもなりかねませんし……」
「「「尼!?」」」
しかし、流石にそれは厳しいというか……そのため、殿も流石に信頼している和尚の言葉とはいえ、そのまま頷かれなかった。結局、処分はじっくり検討を行ったうえで後日改めて下すという事になり、今日の所はお開きとなったのだった。




