第20話 嘉兵衛は、亀之丞を出迎える
天文23年(1554年)11月中旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
結局、あの洞窟に行った日からずっとおとわとは気まずいまま、俺は日々を仕事で塗りつぶして粛々と過ごしていった。城内は亀之丞様が帰還するという事でお祭り騒ぎだが、そんな事は一切関係なく黙々と……。
そして、今日はついにその亀之丞様がこの井伊谷にお帰りになる日らしい。
「嘉兵衛様、そろそろ……」
「わかっているさ、藤吉郎。流石に出迎えの列に加わらないわけにはいかないか」
確認中だった帳簿から目を離して周りを見ると、但馬守殿も心配そうに俺を見ている事に気がついた。おそらくは、俺の心の内にある想いに気づいているのかもしれない。
「さて、参りますか」
正直な気持ちとして、まだ気持ちの整理がついているわけではない。こんなにモヤモヤするのなら、あの日やはり一緒にどこか遠くへ落ちて行った方がよかったのかもしれないと考えてしまうし、藤吉郎から貰った姿絵を見ては、ひとりで欲情だってする日もある。最近では、攫いに行きたいと思ったことだって……。
だが、おとわはこの城の姫で、俺は結局その家臣に過ぎない。自由の国に住んでいた前世であっても同じような叶わない恋は山ほどあったのだ。だから、諦めるより他はないと自分を言い聞かせて、城の玄関口へと向かい、おとわを見ないようにして列に加わった。
そうしていると……それからしばらくして、見目麗しい若者が従者を引き連れてこの城の門をくぐり、姿を現した。
「井伊亀之丞にございます。おじい様、信濃守(直盛)様……お懐かしゅうございます!」
「おお、亀之丞!よくぞ戻ってきた!!」
「凛々しい若武者になったな!頼もしいぞ!!」
大殿様と殿は目じりを下げられて、本当に嬉しそうに亀之丞様を迎え入れた。
9年前、亀之丞様の御父君である彦次郎(直満)様が今川家への謀反の罪で殺された際、命を守るためにこの井伊谷から他国へ逃がしたとは聞いていたが、断腸の思いだったというのは嘘ではないようだ。
「これで何時でも隠居できるな」
「何を仰せですか。教えて頂かねばならぬことは山ほどあるというのに」
「それもそうだな」
それは、こうした目の前の暖かい光景を見れば、非常に良く伝わってくる。周りを見渡せば、俺と同じように感じた者も居たのだろう。もらい泣きしている者すらいるわけで……。
「そうじゃ、おとわ。こちらへ」
そして、続いて許嫁であるおとわとの対面となった。俺は目を逸らしたい気持ちを奮い立たせて、恋の終わりを見届けようとした。これで、今度こそ区切りをつける。そうなるようにと。
「お懐かしゅうございます」
「そ、そうだな……そ、そなたも元気そうでな、なによりだ……」
しかし、誰の目から見てもその様子には違和感があり過ぎていて……俺は何がどうなっているのか、但馬守殿に訊ねた。
「もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「嘉兵衛殿もとわ姫様の性格をよくご存じでしょう」
「ああ、とても可愛くて元気いっぱいで楽しいよな。一緒に居れば、心が弾むというか……心根も本当は優しいし」
「……それは、何と言うか……ごちそうさまです」
あ、あれ?俺は今、変な事を言ったのだろうか。藤吉郎も何だか顔を気持ち悪そうにしながら目を逸らしているし、もしかして失敗したのか?
「前にじゃじゃ馬姫とか、問答無用と木刀で殴りにかかってくるとか、頭が兎に角悪いとか、猫ではなく虎とか……散々好き放題言われていたではありませんか。あれからまだ5か月しか経っていませんが、お忘れになられましたかな?」
「……とんと記憶にございません」
あはは、やだなぁ。俺がおとわの事をそんな悪し様に言うわけがあるわけないじゃないか……。
「まあ、それならそれでもいいのですが、つまり……今言ったようなことを亀之丞様は子供の頃に体験しているのですよ」
「え……あの問答無用の虎のじゃれ合いを……?」
「だから、某は密かに思っていたのですが……もしかしたら、亀之丞様は今川を恐れてではなくて、おとわ様から逃げたくて国外に逃れたのではないかと……」
なるほど……ならば、勝機が少し見えてきたような気がする。諦めるのはどうやらまだ早すぎるようだ。




