第2話 嘉兵衛は、木下藤吉郎を手放さない(後編)
天文23年(1554年)4月中旬 遠江国頭蛇寺城 松下嘉兵衛
さて、ここで改めて我が松下家の事情を説明しよう。
先般亡くなった父・松下長則は槍の達人で、遠縁であった松下石見守(連昌)殿に誘われて遠江引間城主・飯尾豊前守(乗連)様にお仕えし、この頭蛇寺城を任された身であった。ちなみに、石見守殿は俺の婚約者・寿殿の父親でもある。
そして、俺はその長則の嫡男で、齢は数えで18歳だ。これまでは引間のお城(浜松城)で若殿様の近侍として働いていたが、喪が明けたらこの城の主となり、今後は豊前守様配下の将として家中の者を率いなければならなかった。
ただ、それゆえに今、俺は少し困っていた。
「兄上。そこの父上が戯れに飼っていた猿一匹のために、大事な家臣をクビにするとはどういうことですか?」
俺が藤吉郎を庇い立てして、いじめていた連中をクビにしたことが気に食わないのか……2つ年下の弟の源左衛門(則綱)が10人余りの家臣たちと共に談判に来たのだ。つまり、許してやってもらいたいと。
「しかし、源左衛門。やつらが香典を盗んでいたのは間違いのない話だぞ?」
「皆、猿に唆されたと申しております。無論、処罰は必要ですが、何もクビにする必要はないでしょう」
そして、源左衛門は強く主張する。今後、当主を継ぐ俺が飯尾様に奉公するためには、人は必要になるからここで失うのは惜しいと。
「そうか?」
「そうでございましょう。兄上、皆の協力を得ずしてどうやって飯尾様から与えられるお役目を果たすことができるのですか?」
「それは俺がいくさ場で無双すればよいと思うが……」
前世では剣道六段、柔道三段だった俺は、鍛錬を怠らず、そのうえ父から槍も習ってもいた。あの連中がいなくても、その穴を埋める程度の活躍はそんなに難しい話ではない。要は、ひとりで百人の敵をブチのめせば良いわけで。
しかし、この世界に転生してから一度もその実力を見せる機会がなかったため、源左衛門は「御冗談を」と相手にしてくれなかった。
「とにかく、もう一度お考え直しを。ここで恩情をお示しになられたならば、必ずや我が松下家のために働いてくれるでしょうし、兄上にとって損にはならないかと……」
確かにそれは一理あるかもしれない。いざとなれば、戦場で使い捨ての駒にすればいいわけだし……なるほど、温情を示しても俺にメリットはあるわけか。
「わかった。それならば、連中に対する裁きの件はそなたに預けよう」
「ありがとうございます。それで、もう一つご決断頂きたいことが……」
「決断?」
一体何の事だろうかと思っていると、源左衛門は言った。此度の騒動を引き起こした藤吉郎を追放するようにと。
「何を馬鹿な事を申しておる!どうして藤吉郎を追放せねばならぬのだ!!」
「馬鹿な事を申しているのは兄上でしょう!こうして皆も藤吉郎と一緒に働きたくはないと申しておるのです。家中をまとめるためには、あの猿を捨てるべきでしょう!!」
「なんだと!」
俺は頭に血が上って激高したが、源左衛門の言葉に合わせて一緒に居た家臣たちも同調して同じように訴えてきた。藤吉郎をクビにして欲しいと。
「おまえら……」
「兄上……藤吉郎を追放しなければ、皆は我が松下家を去ると申しております。どうか、当主として正しいご判断を!」
きっと、源左衛門は俺の事を想ってこのような進言をしてくれている。その気持ちは伝わってきたが……正しい判断か。そんな事は端から決まっている。
「わかった。皆がそう言うのであれば、追放しよう」
「兄上、ご理解いただきありがとうございます!」
「……おまえら全員をな」
「なっ!?」
おそらく、俺がこのような事を言い出すとは思っていなかったはずだ。勝ち誇っていた源左衛門の顔が固まり、次の瞬間驚きの声を上げたのだ。
しかし、この決定を俺は変えるつもりはない。この場に居る源左衛門を含めた全員に改めて言い渡した。
「よいか!俺は藤吉郎を手放したりはしない!これに不服があるのならば、我が家を辞して何処なりへと立ち去るが良い。源左衛門……それはおまえもだぞ?」
「あ、兄上……しょ、正気なのですか……?」
まあ、普通に考えたら正気とは思ってもらえないだろうな。実際に辞められたら、いくら俺が頑張ると言っても、飯尾様から軍役を与えられたときに支障が出るのは間違いないのだから。
だが、藤吉郎は金の卵なのだ。多少は役に立つかもしれない程度のうちの家臣たちと比べるべくもない。
それゆえに、改めて皆に申し渡した。先にクビにした連中の処分は取り消すが、この決定に従えないのならば、辞めてもらって結構と。




