第182話 嘉兵衛は、尾張に入るも……
永禄3年(1560年)5月下旬 尾張国熱田神宮 松下嘉兵衛
桶狭間の戦いに勝利した翌日、今川軍は織田領内へと進み、その昼過ぎには熱田神宮に本陣を置いた。
なお、織田領内にある拠点には、信長より我らに降伏するようにと命じる使者を送っており、先行する朝比奈勢や松平勢といったお味方による接収が始まっている。
「太守様、知多の水野下野守殿が『戦勝を賀し奉りたい』と罷り越しておりますが……」
そして、それらの動きが尾張で信長に協力してきた国人領主たちに、織田の敗戦を知らせた。特に今目通りを願っている水野などは、先代が今川方だったのに息子の下野守が裏切って織田に付いたと聞いているから、生き残りをかけて必死のようだ。
「目録には、銭5百貫(6千万円)、米1万石、あと馬を2頭と太刀一振りとありますが……」
「虫のいい話よな」と義元公も呆れられているが、このように織田が我らに臣従した事を知って、慌ててご機嫌伺いをする者たちが押し寄せて、この連日熱田は賑わっていた。同じ知多郡に本拠地を持つ佐治水軍の頭領も、昨日同じように頭を下げに来た。
「それで、如何なされますか?過去の経緯は承知しておりますが、水野殿については織田殿だけではなく、次郎三郎からも穏便にとの願い出がありましたが……」
「おお、そういえば、水野下野は次郎三郎の伯父であったな。では、磔ではなく腹を切らせるか?あとは首を晒さず下げ渡して、弔いは許して……」
「あの……穏便にと……」
「ふふふ、わかっている。冗談だ。しかし、大蔵よ」
「はっ」
「水野は裏切りの者だ。しかも、三河では散々煮え湯を飲まされてきた相手だ。切腹はともかくとして、それなりの罰を与えねば、周りに示しがつかぬ」
ただ、義元公が仰せになられるのにも一理あるが、あまり厳しい沙汰を下してしまうと当然水野は反発するわけで、この尾張において無用な騒乱が起きかねない。北にはまだ斎藤という敵が控えている以上、俺としてはそういう事態は避けたいところだ。
それゆえに俺は、20万石ともいわれる領地は四分の一にあたる5万石に減封し、次の美濃攻めにおいては先陣に加わることを水野に対する罰としてはどうかと進言した。
「5万石か……」
「ご不満にございますか?」
「余としては、1万石でも多いと思う」
「いや、流石にそれは……」
厳しい沙汰を下せば、混乱が起こるということは義元公も理解されているはずだ。それなのにこうも渋られるのは……よほど腹に据えかねているという事か?
「もし、どうしてもお許しになる事ができないというのであれば、先陣を命じるなどの厳しい任務を与えればよろしいかと思いますが……」
「それで死んだら、護国の英雄として余は称えなければならぬぞ?それは、やはりいやだ」
ふむ……これは困ったぞ。どうやら、水野は許されそうにない。
「では……下野守は剃髪の上で隠居。家督を継いだ倅に5万石の安堵では如何でしょうか?」
「下野守を坊主にして隠居させる……か。わかった。それならば、余も受け入れよう」
しかし、こうして話がまとまりかけた所に、急報が届いた。清洲城が竹中半兵衛に乗っ取られているという、信じがたい知らせが……。
「斎藤の兵がすでに国境を越えたのか?」
「わかりません!しかし、開城を命じる使者が清洲城を訪れた所、城には斎藤の旗が……」
仮にもし、斎藤が越境して清洲城に兵を入れている様であれば、こんな所で呑気に水野をいじめている場合ではない。いや、水野だけではない。他の連中についても処分を棚上げするなどして、斎藤とのいくさに備えなければならない。
俺はその旨を義元公に申し上げた。
「やむを得ぬな……水野の処分はいくさの後にすることとしよう。それで、これよりどうする?」
「まずは、朝比奈様に連絡して、急ぎ那古屋城を抑えてもらいましょう。そして、その南にある末森城と古渡城にも速やかにお味方の兵を入れて、清洲の様子を窺います」
そして、俺も急ぎ那古屋城に向かう事にする。とにかく、何が起きているのか……確認が大切だ。




