第179話 嘉兵衛は、信長を降す
永禄3年(1560年)5月中旬 尾張国桶狭間山 松下嘉兵衛
信長が降伏した事により、この桶狭間における織田軍の活動は停止した。数的にはまだ3千近くの兵が残っていたが、この砦の2千に駆けつけた松井殿と飯尾殿の兵3千余、それに抜け道の先で舅殿と合流した義元公の軍勢1千余と、合計6千の兵に囲まれては成す術もない。
今はこちらの要求に応じて、大人しく武装を解除している最中である。
「太守様のおなぁりぃ!」
そして、義元公がお越しになられた事で、これより本格的に戦後処理が始まる。真田丸に置かれた本陣では、左右にこの桶狭間山周辺に展開していた部隊の将たちが居並び、中央には信長と熊男——柴田勝家、あとは降伏を受け入れた池田勝三郎が座らされていた。
「一同、面を上げよ」
ちなみに、左右に座る将の列には、織田方に内通したと思われる堀越殿と瀬名殿もおられるが、こちらは後で別に処罰が言い渡される予定である。改易の上で本人と嫡男が切腹という……厳しい処分が。
「さて、織田上総介。こうして武運拙く囚われの身となったわけだが……今の気分はどうか?」
「最悪だな。早く首を刎ねろ。覚悟はできている」
「まあ、そう急くな。死ぬのはいつでもできよう?なあ、大蔵……」
「御意にございますな」
いくさに勝った時の信長の扱いについては、以前より義元公、並びに朝比奈様、それに駿府に居られる氏真公や三浦様とも協議して結論は出ている。
俺は、その結論を信長に告げた。即ち、降伏して今川家に仕えるのであれば……清洲城周辺で10万石を安堵すると。
「津島と熱田は手放して頂きますが、負けた今となってはそう悪い条件でもないかと存ずるが……如何に?」
「おいおい、正気か?俺の首を刎ねれば、自分で言うのもなんだが……織田はもうおしまいだぞ。尾張の全部が今川の物となるのに、なぜそのような……」
「貴殿の才を買っているからですよ。天下のために役立つ人物だと……」
まあ、いきなりそんな事を言われても困惑するだろうが、いずれにしても悪い条件ではないと思う。だから、俺は改めて信長に返答を求めた。受諾するか、それとも拒むのかと。
「……そうだな。負けた今となっては、十分すぎる条件だ。織田家の存続だけを考えるのであれば、悪い話ではない……が」
「が?」
「俺を今川に仕官させて、どう使うつもりだ?言っておくが、この先も俺は野心を持ち続けるぞ。隙あらば、今川家に刃を向ける事もあるかもしれぬが……」
信長はそれでも本当にいいのかと、俺ではなく義元公に訊ねられた。その物言い、態度に諸将らは殺気立ち、松井殿などは我慢ができなかったようで、「自分の立場がわかっているのか!」と怒鳴りつけた。
しかし、信長は臆することなく義元公に向き合い、そのお言葉を待った。
「なるほどな、この胆力……大蔵がここで斬るには惜しい男だと言った意味がよくわかったわ」
「左様でございましょう。この男は天下にとっていずれ役に立つ男だと……某は思いますれば」
義元公は俺の言葉に頷かれてから、信長に返答した。「そうしたいのであれば、その時は好きにせよ」と。
「本当によろしいので?」
「ただし、その日までは余に従って、天下のために働いてくれ。約束できるのならば、余の方からは何も言わぬ。働きに応じて加増もいたそう。それでどうだ?」
「承知しました。この織田信長……以後、太守様に従い、天下のために働きまする!!」
腹の底ではもしかしたら、別の事を考えているかもしれないが、今はこれで一先ず目的は達成できた。あとは、降伏を受け入れたのだからと、俺は信長に織田領内の各拠点に武装解除と引き渡しを命じるように書状を送る事を求めた。
「大蔵殿。懸念は斎藤か?」
「そのとおりです。なので、我らは速やかに清洲まで進まなければなりません。どうか、今川の家臣として、最初のお働きを」
この後の予定としては鳴海城に進み、そこで朝比奈勢と合流してから北上する予定だ。無用な争いで時間を浪費しないためにも、信長の最初のお仕事はとても重要だった。




