第175話 嘉兵衛は、桶狭間の決戦に臨む(4)
永禄3年(1560年)5月中旬 尾張国桶狭間山 松下嘉兵衛
雨はやがてより強くなり、雹まで混じるようになった。あちらこちらの板の屋根に激しく打ち付けて、大きな音を立てたが……それでも、屋根を壊すほどではなく、人的被害はこの櫓から見渡す限りなさそうであった。
そして、正午を過ぎて半刻(1時間)程すると、雹は消え、雨も弱くなり……ついに止んだ。
「殿……あちらを」
「始まったようだな」
雨が止むのをもしかしたら、信長は待っていたのかもしれない。丁度タイミングがよく、武侍山の松井勢に動きがあった。旗が北に向かって進み始めたのだ。
「左近」
「はっ!」
「おとわに伝令を。いつ織田勢がこちらにやってくるかわからないから、準備を……と」
「畏まりました」
櫓の下にいた左近は俺の言葉を受けて早速、坂道を駆け下りて行った。ただ、その左近と入れ替わるように櫓の下へやってきた男がいた。真田源五郎だ。
「大蔵様ぁ!」
「どうした?」
「治部大輔様がお呼びです!もう雨が止んだのだから、戻って来いと……」
本音としては、もうしばらくここに留まって様子眺めをしたい所であるが、こうして呼ばれたからには言われた通りに戻らなければならない。
「弥八郎」
「はっ」
「俺は下に降りるから、何かあったら……」
しかし、そういいかけた所で、その視界の先で俺は違和感を覚えた。
「殿?」
「弥八郎……あれ、何かおかしくないか?」
「おかしい?」
指を差して、俺は弥八郎に説明を試みようとするが……その必要はない程に違和感は異変へと変わる。堀越殿が陣を敷いている高根山、さらには生山の瀬名殿の脇を進む大軍勢が見えたのだ。
「なぜだ……なぜ、堀越殿も瀬名殿も動かない?もしかして、あれは味方なのか?」
「いや……武侍山の松井勢の一部が西にも向かっているようです。となれば、恐らくあれは敵……」
加えて言うならばと、弥八郎は堀越殿と瀬名殿が織田と通じている可能性を示唆した。素通りさせたのは、内々に話がついているからだと。
「どうやら、太守様の出陣を談判した事も含めて、敵の策に乗ったようですな……」
「待て……お二人は、今川家の御一門だぞ?太守様を裏切るなど……」
「御一門とはいえ、必ずしも重用されているわけではありません。それに、素通りさせただけで明確にこちらへ弓を引いたわけではないので、後で言い訳ができるとでも言われているのかもしれませんな……」
「馬鹿な……そんな言い訳が通じる程、太守様は甘いお方ではないぞ?」
ただ、二人の寝返りを追及する時間はどうやらなさそうであった。松井勢の迎撃を突破した軍勢は猛烈な速度でこちらに向かって進んでいた。その数は……およそ、5千から6千といった所だろうか。
「源五郎!」
「はっ!」
「敵は北ではなく、北西からやって来ている。鉄砲隊の銃口をそちら側に向ける事は可能か?」
「できなくはありませんが……今の場所からでは、その威力は精々3割から4割といったところでしょうな」
「では、この本陣に移ってもらい、そこの柵沿いに再配置する事は……」
だけど、そういいかけた所で弥八郎が北を指差した。松井勢が二分されたからだろう。今度は北の武侍山を迂回するようにして、松井勢の囲いを突破して北東からこちらに向かってくる軍勢が見えた。その数は北西側よりもかなり少ないが、1千程度はいるようだった。
「……源五郎、今の言葉は撤回だ。おとわには、まず北東の敵を確実に仕留めるように伝えてくれ」
「承知。されど、北西の敵は……?」
「この砦に籠って迎え撃つ。敵は我らの倍はいるようだが、粘ればやがて味方もかけつけよう。なぁに、まだまだやり様はいくらでもある!」
俺はこの櫓における監視を改めて弥八郎にお願いすると、梯子を下りて義元公の元へと向かった。
「太守様!」
「おう、大蔵か。如何した?そのように慌てて……」
「織田勢が間もなくやってきます!その数は……6千とも7千とも……」
「え……そんなにもいるのか?」
驚かれている義元公のお顔を拝見して、ホント、その辺りの見通しが甘かったことは申し訳なく思うけれども、今は反省している場合ではない。俺は改めて、いざとなったら逃げる算段をするようにと、お願いをしたのだった。




