第19話 和尚は、裏で負けずに暗躍する
天文23年(1554年)10月中旬 遠江国井伊谷・龍潭寺 南渓瑞聞
その日、密使として駿府に派遣していた傑山が帰ってきた。臨済寺の雪斎禅師からの返書を携えて。そして、中身を改めると……この井伊家の世子として亀之丞を迎える事について、駿府のお屋形様が認めてくれた旨が記されていた。
「これも全て御仏のお導きによるもの。ありがたや、ありがたや」
だが、もちろん……何も条件がないわけではない。亀之丞の事に続いて書かれているのは、あの嘉兵衛とかいう生意気な小僧の事だ。そこには、今川家の直臣に迎えるので、遺漏なく引き渡すようにとも記されている。実に結構な事だと思いながら、儂は書状を折りたたんだ。
「しかし、和尚。本当によろしいのですか?嘉兵衛殿は井伊にとって、今やなくてはならない重要なお方なのでは……」
「はん!そなたはまだ若いのう。あれは一見、利益をもたらす金の卵に見えて、その実は龍の卵よ。澄酒程度ならば左程問題にはならぬが……もし、本当に椎茸や硝石を大量生産でもされてみろ。我が井伊家は、忽ちのうちに今川の軍勢によって全てを奪われるぞ!」
そうなってからでは、何もかもが手遅れなのだ。儂もご先祖様に申し訳が立たない。
だからこそ、龍の卵は孵化する前に、それを適切に扱える力を持つ今川家に献上するのだ。しかも、あとで恨まれぬようにきちんと出世の道筋をつけて。
「直臣になった後の待遇については、何か話があったか?」
「今川家としても嘉兵衛殿が持つ技術は秘匿しておきたいということで、まずは知行を500石取りとし、お屋形様より片諱を授かった上で、関口刑部様のお預けにすると」
「なるほど。関口刑部様とは、我が妹を介して井伊家と縁のあるお方。粗略には扱われぬだろうし、今後の事を考えたら何かと好都合というわけか……」
特にあの小僧が始めた澄酒の利益は、井伊家の財政を健全に保つためにはなくてはならないものだ。図々しいことではある事は承知の上だが……できれば、これからも瀬戸屋に卸して商いを続けることを認めてもらいたいと思っている。
そのため、関口家を通じて縁を繋いでおけば、あの小僧は甘い所があるから、もしかしたら上手く事が運ぶかもしれないな。もっとも、あまり期待しすぎるのは禁物じゃが……。
「それで、今川家からはいつ頃迎えが来るのかの?」
「亀之丞様の元服ととわ姫様との婚礼……これに今川からも使者を出すとの事。引き取りは、その時になると雪斎禅師が申されておりました」
「……となれば、来年の正月明けじゃの。但馬守辺りが騒ぎ立てるかもしれぬから、奥山殿や中野殿にも渡りを付けておけ。万一の時はいつでも動けるようにと……」
「承知しました」
もっとも、それでもし小野一派に危害が及ぶようなことになれば、あの小僧に恨まれるだろうから、その点は気を付けなければならない。おそらくだが、そう遠くないうちに今川で重きを為すであろうからな……。
「ところで、和尚」
「なんじゃ?」
「先程とわ様に帰国の挨拶を行ったのですが……一体何があったのですか?待ち焦がれた亀之丞様がもうすぐ戻られて、念願の花嫁になられるというのに元気がありませんでしたが……」
「まあ……それも儂があの小僧をこの井伊谷から追い出したい理由の一つじゃな。ほんのわずかな間しか接していないというのに、どうもおとわはあの男に熱を上げてしまってのう……」
一途なあの子の性格を思えば、浮気をして隠し子まで作った亀之丞を捨てて、小僧と駆け落ちでもしかねない。それでは我が井伊家は今川家中の笑いものだし、万に一つでも尾張に走られたら一大事だ。ゆえに、そんな事態になるような事だけは断じて避けなければならない。
「なんか……不憫ですな」
「仕方あるまい。井伊家の姫として生まれたのだ。これも定めというものよ……」
そして、井伊家を守るのが儂の定めだとも心得ている。例え、かわいい大姪に恨まれたとしても、やらなければならない事はやり遂げる。心を鬼にしてでも。




