第169話 次郎吉は、策の仕上げに取り掛かる
永禄3年(1560年)5月上旬 美濃国稲葉山城下 次郎吉
慌てて城に向かって駆けていく斎藤飛騨守の姿を部屋の窓から見送りつつ、藤吉郎は笑みを浮かべた。まずは一つ、策が決まったと呟いて。
「しかし、藤吉郎。あれは小者だぞ。近習頭を務めているというが、果たして治部大輔は奴の進言に耳を傾けると思うか?」
「そうよな。次郎吉の言うとおり、このままでは上手くいかぬであろうな」
「だったら……」
なぜそのように嬉しそうに笑うのか。上手く行かなければ、斎藤を足止めしておかなければ、織田とのいくさで勝っても清洲城を斎藤に奪われるという間抜けな事になるのではなかったのか?
「おやおや、天下の飛加藤ともあろう者がわからぬと?」
この言葉には少し苛立ちを覚えたが……そんな俺に藤吉郎は説明してくれた。あくまでこれは第一段階だと。
「第一段階?」
「さっきもそういったじゃろうが」
「ならば、第二段階は……?」
ただ、そう口にした俺の肩を……その時、藤吉郎は叩いた。ここで出番だと言って。
「俺の役目は、城に忍び込んで情報を集めて来るだけではなかったのか?」
「それも重要な役目に違いないが、ここからは別の事をやってもらうつもりだ」
「それは……?」
スッと差し出された指示書に記されている文字。目を通してみると、要はこの稲葉山城下に噂話をばら撒けという内容だった。長井隼人正が治める明智庄からやってきた事を装って、武田がこの美濃が手薄になった隙を狙って攻めてくるという噂話を。
「言っておくが、別料金だぞ?」
「金の事は心配しなくていい。とにかく、この噂が広まり、斎藤の重臣たちの耳に入れば、いくら治部大輔が拒もうとしても、尾張への派兵は叶うまい」
なぜなら、治部大輔は亡き父親から権力を奪う際に、重臣たちに借りを作ったからだ。よって、その声を無視する事ができないはずだと藤吉郎は続ける。全くもってそのとおりだなと、ここまで調べた美濃の情報を元に、俺も理解した。
「では、早速仕事に取り掛かろう」
「よろしく頼む」
さて、そうと決まれば、まずは変装だ。明智庄から来たとなれば、綺麗な身なりでウロウロするのは違和感しかない。それゆえに、汗をかくために走り込む。稲葉山城下を駆け抜けて、しばらく行った所で今度は砂を顔や体に塗した。
「ふむ、こんなものかな……」
少し臭いなと思いつつ川辺に立ち、その水面で姿を確認してから、再び稲葉山城下に戻って酒場へと向かう。どこの店でも良かったが、外から見て賑わっている店があったのでそこに決めて中に入る。
そして、その中でもかなり酒が過ぎている町人風情の男たちの傍に近づき、最初の標的と定めて声をかけた。
「なあなあ、本当に大丈夫なのかのう?」
「何がだ?」
「いや、実はな……儂、明智庄から来たんだけどな、殿様が武田と手を結んでこの稲葉山に攻め込むという話を耳にしたんじゃが……」
「なに?」
「それは本当か!」
ふふふ、食いついたな。俺は空になっていたこいつらの椀に酒を注いでやりながら、話を続けた。周りにも聞こえるような大きな声で。
「しかし、例え武田が攻めてきても、斎藤が負けるとは……」
すると、その酔っ払いたちの近くにいた男が驚いたようにして訊ねてきた。身なりからすると、斎藤家に仕える侍の小者といったところか。
「まあ、普通に戦えばそうですが……」
「そうだろう」
「ならば、安心していいってことですかな?」
男は「もちろん」と答えたが、深追いはしない。武田が攻めてくる可能性があることをこの城下の多くの人間に意識させることが目的なのだ。説得する必要は全くない。
この後、程々でこの店での活動を切り上げて、俺は次の店へと向かう。また、酒場だけではない。米屋に呉服屋に簪屋、さらには髪結いの店でも世間話を装ってこの話をする。
「その話は隣の者からも聞いたけど、本当なのかねぇ……」
「みんな言っているし、どうやら本当の話みたいよ……」
こうして徐々に広まる噂に俺は、藤吉郎の目論見通りに事が進んでいることを悟る。数日もしたのちに、街を歩いていると自然にそういう会話が聞えてきて……。




