第167話 嘉兵衛は、我が子の名づけに頭を悩ます
永禄3年(1560年)5月上旬 三河国岡崎城 松下嘉兵衛
「おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ」
織田との決戦に向けて、準備を進めていたところに聞こえてきた産声。ドタバタと足音が聞えてきて、侍女が俺に告げてきた。生まれたのは男の子だと。
「「「おめでとうございます」」」
「ありがとう」
さらに、綾も無事だと聞いて俺はホッと胸をなでおろす。何しろ、この時代の出産は命がけだ。母親かそれとも子供の方か、それとも両方……と、命を落とすこともあり得ない話ではないのだ。
「とにかく、綾にはしっかりと養生するように伝えてくれ」
「畏まりました。それで……御名はなんと?」
「勝千代と名付ける」
男ならば「勝千代」、女ならば「お勝」と決めていたのだ。だから、迷いもなく俺は侍女にその旨を伝えた。しかし、それに対して横から物言いが入った。勘助殿だ。
「大変申し訳ございませぬが……できればその名はご容赦を」
「何故ですか?」
「勝千代とは……我がお屋形様のご幼名にて。もし、お耳に入ったならば、あまりいい顔をなされないと存じますゆえ……」
う~ん……信玄公と同じ幼名なのか。それなら確かにダメだな。この子が男に狂ってしまって、後世に残るラブレターを送っては大困りだし……こちらからもお断りだ。
「では、考え直すとするか……」
もっとも、未来とは違ってここで名づける幼名は、あくまで元服までの仮の名。信長が息子に名付けた「奇妙」とか「茶筅」ではかわいそうだけれども、何でも良いと言えば何でも良い。
だから、「勝」の字だけにはこだわり、「勝次郎」とすることにした。
「畏れながら……殿」
「なんだ、弥八郎」
「生まれた若様は正室腹ではございませぬ。次郎とするのは、如何なものかと……」
この先、家督の継承順を議するとき、おとわにもう一人男の子が生まれたら、その子の方が優先順位は高くなる。それゆえに軽々しく次男であることを認めるような名をつけるべきではないと弥八郎は言うが……これは考え過ぎではないだろうか?
ただ……そういわれると、他の名前がいいのかもしれないとまた名を考える。
「勝法師……これならどうだ?」
「織田上総介の幼名が吉法師でしたので、それは如何な物でしょうか……」
ああ、これもダメか。確かに敵将の幼名に近いのはあまりよくはないな……。
「しかし、考え出すときりがないな……」
「この際、単純に『勝丸』では如何でしょうか?」
「源五郎……流石にそれは安直ではないか?」
「幼名など何だっていいでしょう!それよりも、今は決める事が多いのですぞ。わかっておられるのですか?」
う……それを言われると痛い所だな。
「わかった。では、勝丸という事で……」
「申し上げます!」
しかし、こうして「勝丸」に決まりかけた所で、小平太がこの部屋に駆け込んできて、俺に一通の書状を差し出してきた。裏を見てみると、差出人は松永弾正様で……。
「殿?如何なされたのですか。そのような青い顔をなされて……」
「これを見よ。松永様より、産まれた子の名を教えてくれと言ってきた。果心殿に占ってもらうからと……」
「「「占ってもらう?」」」
「つまり、適当な名を付けたら、このノリノリで喜びにあふれた書状を見る限り、俺の命はなさそうだ……」
ただ、プレッシャーが掛かればかかるほど、妙案というものは浮かばないわけで……この不毛な議論は深夜まで及んだ。
「勝若丸というのは……」
「いっそのこと、勝の字に拘るのを止めては?」
そして、結局決まることなく夜が明けて、追加で届いた松永様からの書状に記されていた名が採用されることになった。「菊幢丸」と。
「あれ?この名はどこかで聞いたことがあるような……」
源五郎が疲れた目をこすりながらそんな事を言ったような気がしたが、もうどうでもよかった。俺も弥八郎も勘助殿も……取りあえず決まったことに胸をなでおろして、布団に向かうのだった。




