第165話 嘉兵衛は、半兵衛の手が伸びていることを知る
永禄3年(1560年)4月下旬 三河国岡崎城 松下嘉兵衛
蜂須賀小六の下に派遣した藤吉郎から知らせが届いた。中身を読む限り、どうやら作戦は上手くいったらしい。しかも、その行く手を阻んだ前田又左衛門なる信長の元家臣を捕えたとも、その書状には記されていた。
前田又左衛門とは……史実において加賀100万石の礎を築いた前田利家の事である。いくさが終わるまでは、蜂須賀家の牢に入れておくそうだが、いずれは家臣に加えたいものだ。
「それで、前野殿と申されたか」
「はっ」
「藤吉郎はいつ頃こちらに戻ってくると申していた?」
ただ、前田の事はひとまず置いて、問題はここに藤吉郎が居ない事だ。作戦がこうして上手く行ったのならば、小六殿の下に留まる理由はないと思うのだが……前野将右衛門殿は言った。
織田の足を確実に止めるために……とか言って、次郎吉と共に美濃に旅立ったと。
「何をするつもりなのかは、教えてくれませんでしたので、それ以上の事は……」
「そうか……」
あまり勝手な事は……と思わないでもないが、もしかしたらこちらではわかり辛い、危険な兆候に気づいたのかもしれない。
「殿……流石にこのような身勝手を許しては……」
「弥八郎。大丈夫だ。藤吉郎に任せておけば、悪い事にはならない筈で……」
「畏れながら、寿桂尼様の一件をお忘れで?あまり甘い顔をなさるとまた大やけどを……」
「…………」
それを言われると、俺の中にある藤吉郎への信頼が揺らぎそうになる。あれは本当に胃がキリキリ痛む程に痛い目に遭ったわけで……。
「よろしいですな。藤吉郎殿には速やかに戻って頂く。前野殿、悪いがそのように伝えて……」
「まあ、待て」
だけど、今回の相手が竹中半兵衛である事を思えば、たぶん悪い事にならないんじゃないかと俺は思うわけで……俺は藤吉郎の好きなようにさせようと弥八郎の進言を却下した。その儀に及ばないと。
「殿……」
「とにかく、藤吉郎を信じてくれ。今は失恋中とか、自棄になる要素はないわけだし……」
「兄上!」
しかし、そんな気まずい空気を切り裂いたのは弟・三四郎の声だった。どうやら一大事が起きたようで、ここまで走ってきたのだろう。汗が額に滲み出ていた。
「どうした、三四郎。何かあったのか?」
「先程、太守様のおわす御殿に行っていたのですが……堀越左京大夫(氏延)様と瀬名左衛門佐(氏俊)様が太守様の元へ押しかけて、しきりに出陣を迫っているという話を耳にしまして……」
「なに?」
一体どういうことなのか。その事情をもう少し説明するように三四郎に求めると、近頃この岡崎城下に噂が流れているとか。
『義元公はいくさ下手だから、此度のいくさもまた家臣に丸投げして、自分は安全な場所にいるつもりのようだ』……と。
「弥八郎、そなたは知っていたか?」
「いえ……そのような噂話は聞いた覚えがございませぬな」
「そうだよな。では、一体これは……」
今は戦時下という事もあり、俺も弥八郎も服部党を動員するなどして、この岡崎城下の情報統制には目を光らせていたのだ。それゆえに、三四郎の言う噂話は……間違いなくこの岡崎城下では広まっていないはずだった。
では、広まっていない噂話で何故このような騒ぎが起きるのか。
「殿、これはおそらく……」
「そうだな。敵の策略だな……」
三四郎の話では、堀越左京大夫様と瀬名左衛門佐様がこの噂話に憤った譜代の方々を糾合して、義元公に出陣を求めているということだった。今川家の威信を示すためにも……と。
つまり、この噂話は城下に広めようとしたのではなく、堀越様や瀬名様といった特定の人物の耳に入るように流したという事だ。このお二方は、今川一門でありながらやや冷遇されているし、功を立てようと焦って飛びつくと思ったのだろう。
竹中半兵衛という男は——。




