第157話 嘉兵衛は、少女を誘拐する(後編)
永禄3年(1560年)3月上旬 三河国岡崎城 松下嘉兵衛
五右衛門が清洲城下から攫ってきた少女は、自らを寧々ではなく「くま」と名乗った。齢は13歳で、一つ上の姉だと。
「五右衛門……」
「お、お待ちを!……娘よ。しかし、おまえは名乗ったよな?俺が寧々ちゃんかと訊いたら、そうだって……」
「だって、おじさん明らかに怪しかったでしょ?だから、寧々を守らないとと思って、振りをしたのよ。そしたら……」
くまちゃんが言うには、五右衛門はそれからいきなり手首を掴んで路地裏に連れ込もうとしたらしい。それで暴れて、眠らされて……気が付けば味噌樽に入れられてここまで運ばれたとか。まあ、酷い話である。
「でも、嘉兵衛。それじゃあ、このくまちゃんはどうするの?人違いだったのだから、清洲に返してあげることはできないの?」
「そうだな……」
犬猫ではないけれども、たぶんそれが一番いいと俺も思った。何よりきっと、この子の家族が心配しているはずだし、と。しかし……
「兄上」
そこに現れたのは、弟の三四郎だった。取り込み中だからあとで話を聞くと言ったのだが……鳴海城に織田勢が攻めて来たとのことで、救援を求められているからと押し切られた。
「敵の兵力は?」
「およそ3千とのこと」
「3千?」
俺はこの数字に違和感を覚えた。信長の領地は現状およそ40万石強で、最大動員兵力はおよそ1万と推測されるから、3千の兵を差し向けることは不可能ではないが、美濃の斎藤が虎視眈々と尾張を狙っているのに果たしてそんな冒険ができるのかと。
「なあ、五右衛門。美濃に関する情報、何か入っていないか?」
「いえ、入っておりませぬな。此度の岐路でも通らなかったし……」
「そうか」
「如何なさいましたか?何か気になる事でも……」
もしもであるが……美濃の斎藤が織田と手を組んだのならば、信長は後ろを気にせずに我今川軍を全力で迎撃しようとするはずだ。その前提で考えたなら、鳴海城に3千の兵をむけることは別段おかしな動きではない。
「五右衛門、帰って来たばかりで済まぬが、美濃を調べてくれぬか。もしかしたら、斎藤と織田は手を結んでいる可能性がある……」
そして、本当にこの推測が正しいのならば、兵力見積りが覆るため、俺の考えている尾張攻略作戦は一から練り直しをしなければならない。
「承知しました。では、直ちに……」
「うむ、頼んだぞ」
流石は忍びと言うべきか。返事をするなり、五右衛門の姿はもうそこにはなかった。
「ねえ、嘉兵衛……五右衛門行っちゃったけど、それでこの子はどうするのよ?」
「あ……」
しかし、次の瞬間、おとわのその言葉で俺は失敗したことを悟った。五右衛門が居なくなった今、くまちゃんを無事に尾張の実家に帰す手段がなくなったのだ。
「えぇ……と、お金あげるから、ひとりでおうちに帰ってもらうわけには……?」
「何を言っているのよ!今の話だと、織田との国境ではいくさが始まっているのよね?そんな所に行かせたら死んでしまうでしょ!!」
うん、確かにおとわの言うとおりだ。いずれ家に帰すとしても、いくさが終わるか五右衛門が帰ってくるまで待つ必要があるだろうな……。
「しかし、兄上。それでは、この娘は……」
「なんだ、三四郎、気になるのか?」
「え?あ……いや、その……」
そういえば、元服したから俺の近習として働きだした三四郎は15歳と、このくまちゃんと齢が近い。ならば、いっそのこと一緒にしようかと思って俺は提案することにした。このくまちゃんの世話をおまえがやれと。
「あ、兄上……いくらなんでもそれは……」
「嫌なら、この役目は藤吉郎に任せるが、それでもいいのか?」
実際の話、藤吉郎の嫁は誰でもいいし、寧々ちゃんでなくてこのくまちゃんでもいいかなとも思わないでもない。だから、三四郎にその気がないのであれば、本当にそうしようかと思っていたのだが……ゴツンとその時、俺の頭におとわのゲンコツが落ちて来た。
「い、痛いぞ……」
「黙って聞いていたら、この人さらいの頭目が!この子の人生を何だと思っているのよ!!」
「い、いや、しかし……」
「しかしもかかしもないわ!この子はわたしが預かる。いい?異義は認めないから!」
異議が認められないのであれば仕方がない。俺は白旗を上げて、おとわの意向に従うのだった。




