第17話 嘉兵衛は、失敗を悟りヤケ酒を煽る
天文23年(1554年)9月上旬 遠江国井伊谷 松下嘉兵衛
「しかし、それがお分かりならば、なぜこんな所に某を呼び出してお話をされたので?」
「そうじゃのう……何でなのかのう?ただ、何となく嘉兵衛に聞いてもらいたいと思ってな……」
はぁ……またため息が出た。あ、今度は飲み込めずに出てしまったか。
「ふふふ、やっぱり迷惑であったか」
「まあ……」
「……とはいいながら、実は少し期待しておって、がっかりしているのではないのか?」
「そんな事は……」
うん、俺も男だからな。それは……。
「では……もし、我が『このまま他国へ一緒に逃げよう』と言い出したらどうする?」
「全力で止めるな」
「なぜじゃ?自分で言うのもなんだが……わたしはそれなりに可愛いとは思うぞ?駆け落ち……したいとは思わぬか?」
揶揄っているのか、それともどこか本気で考えているのか。冗談っぽく言いながらも、最後の方は緊張したように声を落して訊ねてきたおとわに、少し心が動かされそうになるが……結局、俺の答えは変わらない。
「どうして……」
「俺にはお役目があるのですよ」
そう……ここでおとわと駆け落ちしたら、ひよ殿を娶るという俺のミッションがクリアーできない。その先に待っているのが飯尾の若殿による粛清劇となれば、流石にそんな無責任な事はできなかった。
すると、おとわは「そうか……」と寂しそうに呟いた後に、「今の話は忘れてくれ」と言った。だから、俺もそれを承知して、洞窟に入らずに城への帰路についた。
「あれ?姫様は……」
「ああ、何か急用ができたらしくてお城に帰られた」
屋敷には一人で帰ったから、藤吉郎が驚いたような声を上げた。おとわの気持ちを考えると俺も胸がチクチク痛いが、本当の事情を告げるわけにはいかずに部屋に入る。
「おお!やっと帰ってきたか!待っておったぞ!!」
しかし、これは一体どうした事だろうか。そこにはヘベレケに酔っ払った但馬守殿が居て……俺の顔を見るなりそう声を上げて抱き着いてきたのだ。
「あ、あの……これは一体……」
「亀が帰って来るそうだ!くそ、あの狸和尚め……父上が居なくなったことをいいことに好き勝手しやがって!お~い、藤吉郎!!酒だ!嘉兵衛の分も……いや、もうこの際だ。おまえも呑め!」
「え……いいんですか!」
「構わん、構わん!俺はこれでも家老だからな!!そうだ、おまえも士分に取り立てよう。明日から勘定方与力として城に出仕しろ。よいな?」
「ははぁ!ありがたき幸せにございまする!!」
この様子だと、明日になったらたぶん忘れているだろうけど、藤吉郎は気賀との交渉で大きな手柄をすでに挙げている。もし、本当に忘れていてもこれだけは実現しよう。何しろ、俺はこれでも勘定奉行なのだ。
「しかし、亀之丞様は……本当におとわ様と結婚なされるので?」
「何を言っているのだ。そんなの当たり前じゃないか!くそったれ!!」
「隠し子がいると聞きましたが?」
「子が多いのはお家にとっては万々歳だ。特に問題にはならぬだろうよ。ご隠居様(井伊直平)や和尚ならば、な!」
まあ、確かにこの時代ではその考え方が普通だとはわかっている。ただ……やはり、おとわが最後に見せた寂しげな顔が思い出されてしまい、俺はモヤモヤして酒を煽った。
「お!いい飲みっぷりだな。さては、飯尾の若殿様から知らされたな?ひよ殿が別れる事に同意したから、もう貴殿のお役目はなくなったことを」
「は、はい!?」
一体何の事だと思っていると、横から藤吉郎が1通の書状を差し出してきた。これが先程届いたと。そして、中身を開けて見ると……但馬守殿が言われていた通りの内容がそこに記されていた。しかも、ひよ殿は俺と一緒になるつもりはないからこれ以上近づくなとも。
「な、なんだよ……これは」
「まあ、がっかりするなよ。俺たちは『もう恋なんてしない』。これでいいじゃないか!」
いつもの真面目で堅物な但馬守殿とは思えない弾けっぷりもさることながら、これならおとわとの駆け落ちも、もう少し真面目に考えておけばと後悔する。
「ああ、くそ!失敗したぁ!!」
だから、俺も今日はとことん酒を飲むことにした。呑んで飲んで飲みまくって、この苦い気持ちを少しでも薄めるつもりで。




