第152話 嘉兵衛は、尾張を獲るために動き出す
永禄3年(1560年)1月下旬 三河国岡崎城 松下嘉兵衛
「太守様のおなぁりぃ!」
今川家の家督を氏真公に譲られて1年。引継ぎを終えた義元公が岡崎城に入城された。なお、代替わりに伴い、氏真公がお屋形様、義元公は太守様とお呼びする事になっている。まあ、この辺りの話はどうでも良いが……。
「備中守。尾張の状勢は如何であるか?」
ただ、義元公がこうして岡崎城に入られたからには、いよいよ尾張攻めが始まる。沓掛城、鳴海城、大高城までが今川の勢力圏であり、そこから北への侵攻を阻止すべく、織田方もいくつか砦を築いて兵を入れているということだ。朝比奈様はその事を説明された。
「手ごわいか?」
「それなりに……」
「大蔵、如何するか?」
そして、ここからは軍師である俺の役目だ。藤吉郎、弥八郎、源五郎と相談したうえでまとめた作戦をここで披露する。信長をあえて桶狭間につり出す作戦だ。
「斎藤という敵を背後に抱える織田にとって、我らとのいくさに全力を注ぐことは不可能でしょう。よって、短期決戦による勝利を狙うはずです」
俺は目の前に広げられている地図の『桶狭間山』を扇子で指し示して、ここに『赤鳥の旗』を立てると言った。つまり、本陣をここに置くと。
「さすれば、織田はこの本陣に奇襲を仕掛けて、太守様の御首を狙いに来るでしょう。具体的には、陽動部隊を中島砦からそのまま街道を進ませ、我らの目を引き付け……その間に別動隊を本陣へと進ませる……」
藤吉郎が村の者たちに金をばら撒いて集めてきた情報によれば、中島砦から桶狭間山まで、山間部を通れば辿り着ける間道があるそうだ。ゆえに、信長は必ずその道を使うと確信している。
「来る道がわかっていれば、如何様にもできましょう。兵を潜ませて、討ち取る事も捕らえることも……」
「しかし、大蔵殿。本陣を囮に使うのは危険ではないか?万一、目論見が破れて、太守様の御身に何かあれば……」
「備中守様、その点は御心配なく。某は確かに『赤鳥の旗』を立てるとは申しましたが、なにも馬鹿正直に太守様がそこに居なければならないわけでもないでしょう」
「なに?」
「太守様にはこのまま、清洲城が落ちるまではこの岡崎に留まってもらいます。要は、旗を立てる事で織田に錯覚させるのですよ」
つまり、桶狭間にやって来た時点で、信長に勝ち筋はないのだ。あとは……できれば降伏させたい所であるが、難しいようであれば、討ち取る事も選択肢に含める。
「……それで、いつから始める?」
「勝利した後は、速やかに尾張全土を押さえなければなりません。そのためには、三河のみならず、遠江から兵を、さらにそれらを養うだけの兵糧を集める必要があり……早くても4月、あるいは5月になるかと」
「今居る兵だけでは難しいか?」
「桶狭間において、織田に手酷い痛みを味合わせるだけならば、確かにその通りですが……」
あまりモタモタしていると、美濃の斎藤が火事場泥棒よろしく尾張に攻め込んできて、北部を中心に領地を掠め取られる可能性がある。そのため、事を始めるのなら、尾張を完全に制圧することを前提に考えなければならないのだ。
そして、その事を申し上げると、太守様はこの作戦で構わないと仰せになられた。
「ありがとうございます」
「されど、旗だけならば、織田も流石にどこかで勘付くのではないか?大軍を連れて行くというのなら、余が居たとしても大丈夫なような気がするが……」
あ……ヤバい。どうやら、義元公は戦場に行きたくてうずうずしているようだ。しかし、勝つためには、それだけは断固として阻止しなければならない。
「御心配には及びませぬ。本陣にはきちんと影武者を置きます」
「誰が余の影武者を?」
「僭越ながら、某が務めますが」
まあ、別に俺じゃなくても構わないのだが、この場は勢いでそういう事にした。義元公が変な気をまた起こさないうちにと。




