第16話 嘉兵衛は、おとわと二人きりで出かける
天文23年(1554年)9月上旬 遠江国井伊谷 松下嘉兵衛
結局、和泉守殿は目を覚ますことなく、そのまま身罷られた。しかし、和尚が約束通り手を打ってくれたのだろう。但馬守殿は末席とはいえ家老に加わり、クーデターは起こらなかった。
そして、俺も井伊家の財政再建のために努力した事、澄酒造りの秘法を伝授してお家に利を齎したことを正当に評価されて、勘定奉行の要職を任されることになった。
「今日はお祝いですな!」
「だったら、酒が飲めるという事だな!楽しみじゃのう!」
しかし……これはどういった状況なのだろうか。藤吉郎がここに居てそのように声を上げるのは当たり前だが、なぜ、とわ姫様が俺の屋敷に居て、それに相槌を打っている?
「今日は御母君から、生け花を習う日ではなかったのですか?」
「花を触ると鼻がムズムズするから、逃げてきた」
思わず、「花粉症?」と訊ねたくなったが、たぶんこの時代にそんな言葉はないだろうから口には出さない。それに本当にそうなのかはわからないし、もしかしたら、ただイヤで逃げ出してきただけなのかもしれないわけで……。
「まあ、そういう事なので嘉兵衛。藤吉郎の準備が整うまで時間があるわけだし、少し出掛けぬか?」
「はぁ……仕方ありませぬな。お供致しましょう」
本当は、明後日の会議に備えて資料に目を通しておきたいと思っていたが……断れば、勝手に一人で出かけて行きかねないので、吐き出しそうになるため息を飲み込んで、俺は姫様の願いを受け入れる事にした。
「それでどちらに?」
「秘密の隠れ家じゃ」
「秘密の隠れ家?」
一体どこにあるのかはわからないが、こうなった以上は文句を言っても仕方がない。姫様に置いて行かれないように馬に鞭を入れて走らせた。
そして、城下を離れて川沿いの道を西へずっと駆けていくと、姫様は突然山道へと進まれた。流石にあまり遠くまで行かせるわけにはいかないので、そろそろ声をかけて止めようと思っていると、「着いたぞ」と声が聞こえてきた。
そこは……洞窟の入口だった。
「まさかとは思いますが……これから中に入って探検しようというのではありませんよね?」
「え……ダメかのう?」
「ダメに決まっているでしょう!ご自分のお立場を……」
そう言いながら俺は気づいた。とわ様はお笑いになられている。つまり、揶揄われたのだと。
「姫様……」
「おとわでよい。あと、敬語も不要じゃ。ここには我とそなたしかおらぬし……」
「ですが、姫様……そういうわけには」
「おとわじゃ!それ以外で呼ばれても返事はせぬぞ!!」
はぁ……またため息が出そうになった。しかし、どうしてもとお望みならば仕方がない。俺は諦めて「おとわ」と呼び捨てにした。
「……なんか、実際にそう呼ばれると照れるな」
「おとわがそう呼べと言ったじゃないか」
「まあ、そうであるがな……」
二人きりという事もあって、そんな照れたおとわを見て俺も何だか意識してしまうが……流石に流されて手を出してしまえば、折角粛清を免れたというのに、また死刑台に送られかねない。
だから、これ以上変な気持ちが起きないようにと、俺はここに連れてきた真意についてをおとわに訊ねた。
「実はな……父上から教えてもらったのだが、もうじき亀が帰ってくるらしい」
「亀?」
「我の許嫁じゃ。知っていると思うが、9年前に命が危うくなって他国に逃げた……」
「ああ!亀之丞様の事ですか!」
しかし、同時に不思議に思ったのだが、あれほど戻って来ることを切望していたはずなのに、おとわの表情はイマイチさえない。
「あの……何か懸念でも?」
「どうやら隠し子がおるらしい」
「隠し子……ですか」
そして、おとわはいう。戻ってくるのは嬉しいが、何だかとっても許せないと。
「おかしいと思わぬか!?我は鶴との縁談話が上がっても、操を立てて何度も断ったというのに……浮気だけじゃなく、子までなすとは!もう婚約破棄でもいいんじゃないかって思うのだ!!」
なるほど……事情はよく分かった。ならば、これは俺にとっては好都合かもしれない。
「それならいっその事、但馬守殿と一緒になられては如何でしょうか?」
「あ……それはない。我はあのように泣き虫な男は好かぬ」
「あ、ははは……即答なのですね」
哀れ、但馬守殿。今度、美味しい酒を持参して、慰めることにするか。あの真面目な男なら普通に「もう恋なんてしない!」とかいって、本当に実行しそうだし……。
「しかし、本当に婚約を破棄なさるおつもりで?」
「まあ……それができたら苦労はせぬわな」
そりゃあそうだ。おとわはこの井伊家の惣領娘なのだ。自分の自由意志でそんな事ができるはずもない。かつての俺と同じように、結婚相手は家の都合で決められるものだ。




