第141話 嘉兵衛は、指一本では引き抜かれない
永禄元年(1558年)7月上旬 京・吉祥院 松下嘉兵衛
「はじめに、御所様。此度のご英断、真にありがとうございました」
三人で仲良く湯船につかると、三好様はそのように申されてから御所様に頭を下げられた。
「ふん!こやつに説得されたのだ。礼ならこやつに言え」
しかし、義輝公はその礼を素直に受け取らずに俺にキラーパス。「え?巻き込まないでくれよ」と言いたかったところであるが、こうなっては仕方がない。
「では、松下殿は御所様に何を言われて説得なされたのですかな?」
そのように続けて質問が飛んできて、俺はありのままに答えた。幕府を滅ぼしたくなければ、三好様を利用するように説得したことを。
「おいおい、そこまで馬鹿正直に打ち明けなくてもよいではないか……」
「そう言われるのであれば、某を巻き込まなければよろしかったではありませぬか。敢えて空気になろうとしていたのに……これは自業自得かと」
それに俺は今川家の家臣であって、義輝公の家臣ではないのだ。もちろん、このように親しくなったからには情がないわけでもないが、それとこれとは話は別である。
だけど、そんな俺と義輝公のやり取りを見て、三好様は大いに笑われた。
「筑前守……」
「いやはや、大蔵殿は中々に面白きお方ですな。御所様がかようにお気にいられるのもわかるような気がします」
「……ありがとうございます」
褒められたのかどうかは微妙な所であるが、相手は事実上の天下人。取りあえず、礼を言って頭を下げておく。
しかし、笑顔だった三好様のお顔が急に真面目なものに変わったのはその瞬間であった。
「……ところで、大蔵殿」
「はい」
「大蔵殿は御所様にそのようなご提案をされて、この後どのようになるとお考えで?そもそも、幕府が安定すれば……今川様を天下人にすることは不可能かと思いますが?」
なるほど。それは義輝公に献策してからというもの、考えなかった事ではない。あの時、縋られたからついうっかり未来知識を元に話してしまったが、確かに幕府が安定してしまえば、俺が目指している今川家の天下は訪れないわけで。
「なに?今川も天下を狙っているのか!」
……まあ、今頃このような世間知らずな事を口にされる義輝公に同情したのがそもそも失敗したなと思わないわけでもないが、それはさておき……この質問にどう答えるかだ。
「幕府が安定する。そうなれば、確かに我がお屋形様がわざわざ天下人になる必要はございませぬな。結構なお話かと存じます」
「わざわざ天下人になる必要がない?大蔵殿……今のお言葉だと、今川様はなりたくないけど仕方なく、天下人を目指さざるを得ない、そのように聞こえるが……?」
「いかにも。そもそも、我が今川家は足利将軍家の御一門。幕府が安定していれば、それなりに敬われるでしょうし、それなら何の心配もなく、今の領国の統治に力を注げるわけです。実際に家中には未だそのような事を申す者も多数おりますし」
しかし、幕府が崩壊へとこの先向かい、新たな天下人を決める競争が始まる世の動きを考えた時、それは許されないと俺が主張してお屋形様を天下人に、ということになったのだ。さもなければ、今の幸せを奪われかねないからと。
それゆえに、幕府が安定して弱肉強食の世の中が改まったのなら……今川家は現状維持で俺も構わないと考えている。
「ただ……逆にお訊ねしますが……」
「なにかな?」
「今回、某が御所様に提案した事、三好様もお考えになられていたのではありませぬか?」
「ふふふ、そうだな。大蔵殿の申される通りだ。儂も考えるには考えていた。しかし、何故そう思った?」
「失礼ながら、今の三好様には六角様を始めとする周辺諸大名を全て平定するまでのお力はないかと。細川様から権力と領地を奪ってまだそれほどの年月も経っていませぬし……」
「その通りだ。今の三好にはそこまでの力がない。だから、御所様の権威に縋ってまずは足元を固めようと考えたのだ。そうせねば、我が三好家の先行きは怪しいからな」
「……であれば、此度の献策で畿内は安定するかもしれませぬが、それで忽ち三好家の天下がやってくるというわけではございますまい。状況次第では、我が今川家の力が天下に必要とされる日もやがて巡って来るかと」
「なるほど……大蔵殿の言い分はよくわかった。それにしても、そこまで考えているとは……見事なものだな」
「ありがとうございます……」
「ところで、どうだ。これで俺の下へ来ぬか?」
三好様は指を1本立てられた。あれ?これって昔、漫画で見たような気が……?
「も、もしかして、100万石で某を引き抜かれようと!?」
「……いや、悪いが1万石だ。そもそも、100万石もそなたに渡すほどの領地は、今の三好家には用意できぬし……」
まあ、そらそうか。それならいいやと、俺はこの申し出を断ったのだった。




