第15話 嘉兵衛は、和尚と交渉する
天文23年(1554年)8月上旬 遠江国井伊谷・龍潭寺 松下嘉兵衛
俺が南渓和尚のいる龍潭寺を訪ねると、すれ違うようにして若い僧が出てきた。見たことないなと思ったが、振り返るとその姿はいつの間に消えていた。そう……まるで、時代劇で見たような忍びのように。
「これは松下殿。どうやら、今日もとわ姫様がお世話になったそうで、すみませぬな……」
それゆえに、俺は確信した。この和尚はどうやら狸親父だと。すでに和泉守殿が倒れた事を知っているはずなのに、こうして何も知らないように誤魔化そうとしているのだ。きっと、さっきの者に何やら密命を与えたのであろう。
「ささ、そんな所では何でしょう。どうぞ、こちらへ……」
「はっ……」
だから、俺は改めて認識し直した。ここは、敵地であると。
「それで、ここに来られたという事は、何か拙僧にお話があるのでは?」
「すでにご存じだとは思いますが、小野和泉守殿がお倒れになりました」
「ほう……左様ですか。まあ、もちろん存じておりますが、今の段階でこの秘事を知っているという事は、貴殿は余程に信頼されている……そういうことなのですな」
「まあ、そういう事でしょうな」
本当のところはどうなのかはわからない。しかし、この場はそう答えておかなければ、和尚はきっと対等な話し合いに臨んでは頂けないだろう。ハッタリだろうが何だろうが、今はこれで正解のはずだ。
「それで、仮の話ではありますが……和泉守殿が身罷られた場合、この井伊谷に血の雨は降りますかな?」
「雲の流れを見る限り、その心配はないかと」
つまり、今の言葉からすると、粛清劇は予定されていないという事らしいが、果たしてそれは本当なのか?
和尚の表情を観察するが、流石は長く厳しい修行を積まれてきたお方だ。前世も含めたら、俺も同じ位の年数を生きていると思うが、今一つよくわからなかった。
ならば、これ以上その真偽をつついたところで何も出てくるとは思えない。俺は、和尚が小野一派をこの機に排除しようとしている事を望んでいる前提に、半ば脅しともいえる提案をする事にした。
「和尚、澄酒の生産でこの井伊家の財政はいずれ立ち直るでしょう」
「そうですな。これも誠、御仏のお導きにて……」
「おやおや、何を申されますかな?これは全て、我が松下家の秘伝を某が伝えたからでしょうに」
「ふん……何を偉そうに。それがどうした?」
「いやね……もし、その事を忘れて、本気で御仏のお導きと言い張るのならば……全てを尾張の織田信長にも教えてもよろしいのですよ?」
「な……なんじゃと!?」
まあ……そんな話がもし駿府のお屋形様の耳に入るようなことにでもなれば、きっと井伊家はお取り潰しになるだろう。もちろん、そんな事はできればしたくないが、仮にここに居られなくなったら、その転職の選択肢はないわけではない。
あちらは確実にブラックではあるけど、パワハラに耐えて死ぬほど頑張れば一国一城の主も夢ではないのだから。
「さて、如何なさいますか?実は某にはまだ、伝えていない秘伝が残っておりますよ?例えば……椎茸栽培や硝石の製造とか……」
「し、椎茸……それに硝石……」
「そんな貴重な金の卵をどのように遇すればよいのか。博識な和尚ならば、もうお分かりですよね?」
「も、もちろんだ!」
そして、こうして話の主導権を握ったからには、こちら側の要望を伝える。即ち、和泉守殿がお亡くなりになられても、但馬守殿を初めとする小野一派に不利な事をしないということを。
「別に和泉守殿が就かれている執政家老の職を但馬守殿に継がせろとまでは申しません。ですが、家老の末席に加えて頂き、新体制でもそれなりのご配慮を賜れば……と」
「わかった。その事は儂から責任を持って殿に言上いたそう。だから……」
「わかっています。椎茸と硝石の技術は、状況が落ち着いたら必ず井伊家の方々にお教えいたしましょう」
もっとも、教えたところで駿府の今川家を刺激しかねないから、そんなに多くは作れないと思うのだが、今はその事に触れる必要はない。兎に角、これで一先ずは大丈夫だ。




