第139話 弾正は、主に報告するも……
永禄元年(1558年)7月上旬 京・東寺 松永久秀
御所様が提示した和睦の条件を丸呑みされた——。
その事を伝えた時、殿は何やら書状らしきものを準備されていたが、安堵されたように息を一つ吐かれてそれを破り捨てた。「それなら、これはもういらぬな」と呟かれて。
何かと思っていると、殿は教えてくれた。これは、六角左京大夫宛に記した和睦の打診状と。確かにそれなら不要だ。
「それにしても、御所様はよくぞご決心なされたな」
「今川治部大輔が家臣、松下大蔵少輔なる者が説得してくれました」
「ん?なぜここで今川の家臣の名が出てくるのだ?」
「前にご相談しました通り、このいくさが終わったら某は大和へ向かいますが、松下殿の家臣に生駒郡の国人・島家の嫡男がおりまして。それで此度協力をお願いして上洛していたわけなのですよ」
作戦の詳細な内容については儂と殿の間柄だ。説明する必要はないし、聞いても来ない。だが、どうやら大蔵少輔殿の事については興味を持たれたようだ。どういう男なのかと、これについては説明を求められてきた。
「そうですね……主である今川治部大輔は、『今張良』と評したとか」
「今張良か。それはまた、大きく出たな」
「ですが、その張良殿のおかげで、我らは大きな利を得ました。幕府の執事——これならば、殿が天下を差配するにふさわしい役職かと」
幕府を事実上支配するために、できれば管領に就任できればいう事なしではあるが、細川家の家臣であった殿はいわば陪臣。それは難しいとまずは直臣となり、相伴衆となるところから始めるのが此度の落し所と殿も儂も考えていたのだ。
それなのに、このような提案が出てきたのだ。我らとしてはこれ以上にない良い結果だ。
「きちんと礼はしたのであろうな?」
「無論の事。今頃例の『特別室』でお楽しみの最中かと」
「ほう……あのいけない『特別室』を解放したのか。それはまた、そなたも思い切ったものよな」
「それほどしても、感謝しきれない恩を受けたと某は思っておりますが?」
「ふふふ、違いないな。おかげで御所様を弑す必要もなくなったことだし、儂としても万々歳だ」
その目の下には隈が色濃く表れていて、眠れない日々が続いていたことを物語っていた。何しろ、此度のいくさでは、御所様の取扱いについてどのようにするべきか……三好家中でも意見が割れて、殿はずっと悩まれていたのだ。
例えば、いっそのこと御所様を討ち取って、三好家の幕府を開いては……などという物騒な声を上げる者もチラホラ居たりしたわけで。
「そもそも、皆、調子に乗り過ぎているんだよな……」
「それは仕方ないかと。実際に三好家は上り調子ですし……」
「だが、弾正。この勢いがこれからもずっと続くと思うか?」
「正直に申し上げれば、難しいでしょうな。そもそも、細川家から領地を奪ってまだ日が浅く、足下が固まり切っていません。この状況で包囲網を敷かれて一斉攻撃を受けたなら……」
「あっという間に政権は瓦解して、四国へ海外逃亡というわけか。折角ここまで来たのに、それは嫌だな……」
だからこそ、此度のいくさで御所様を弑すわけにはいかなかったのだ。天下を獲ったと勘違いしている者も居るだろうが、現時点における三好家は畿内を押さえて四国を失わないようにするのが精一杯といったところである。
「それにしても、話は戻るが……今張良か」
「如何なさいます。もし殿がお望みならば、一席設けますが?」
「そうよな……一度会っておくのも悪くはないか。それに、御所様も一緒に居られるのであろう?」
「ええ……」
ならば話は決まったと、殿は立ち上がられた。但し、御所様がお忍びで来られている以上、こちらもお忍びで会うと言われて、しばらくした後になぜか白髭を蓄えたちりめん問屋の隠居のような姿で儂の前に現れた。
「どうだ、これなら誰も儂だと気づかぬであろう?」
いや、それはそうかもしれないけれども、天下人がこれでいいのかと思いながら、儂はお供をする事にしたのだった。




