第14話 嘉兵衛は、一難去ってまた一難を迎える
天文23年(1554年)8月上旬 遠江国井伊谷城 松下嘉兵衛
澄酒を実際にこの井伊谷で作ってみてから10日余り。俺は、集まってくれた井伊家の女衆を前に作り方をレクチャーしている。何せ、ただ適当に灰を撒けばいいわけではなく分量もあるし、その後の管理だって必要なのだ。勘定方と兼務では注文に対応しきれない。
まあ、それなりの小遣い稼ぎにはなるし、みんな協力的な姿勢で俺の話に耳を傾けてくれているが……
「わあ!ひ、姫様!?それは入れすぎですって!」
「え、えぇー!!」
……だけど、何でシレっと紛れ込んでいるのだろうか、このお姫様は。しかも、人の説明を聞き飛ばしていたのか、早速失敗しているし。
「何をやっているんですか。今日は和尚様から礼法を学ばれるはずではなかったのですか?」
「ああ、あれか。つまらないから抜けて来た」
「抜けて来た……?」
「だって、ずっと正座で足は痛いし、眠たくなってウトウトしていたら和尚に怒鳴られるし……しかも、こっちはとっても面白そうなのだから、仕方あるまい?」
「何を仕方がないのかは意味不明ですが……それでは和尚様に叱られるのではありませぬか?」
「そう、それよ!だからのう、嘉兵衛。そなたから父上や和尚様に頼んでほしいのだ。『どうしても、おとわが欲しいから、某に下さい』……と」
いやいや!流石にそれを言えば大問題だ。「何をたわけたことを!」と殿は大激怒されるだろうし、何より小野親子が黙っていないはずだ。藤吉郎が仕入れて来た情報によれば、これまでも自分たちに都合が悪い政敵を消してきたとも聞くので、下手をせずとも殺されかねない。
でも、だからといって「ダメかのう?」と、目を潤ませておねだりしてくる姫様には敵わず、和尚様が迎えに来るまでならと条件を付けて参加を認めた。まあ、これを機に仲良くなっておけば、但馬守殿との縁談も勧めやすくなるし、悪い話ではないと思って。
「しかし……嘉兵衛は凄いな。何でも知っているし、しかも強いし……あんな素敵な歌まで詠めるし……でも、わたしには婚約者が……ああ、どうしよう」
「ん?姫様。何か言われましたかな」
「な、なんでもないわ!そ、それより、灰の量だが、今度はこれでいいのかの?」
「ええ、大丈夫ですよ。そのまま入れてください」
しかし、こうしてとわ姫様とは仲良くなったものの……肝心かなめのひよ殿との仲は全くと言っていいほど進展していない。もちろん、先日の合コンでそれなりに会話を重ねて親睦を深めたつもりではあるが、どこか壁を感じるのだ。いや……相手にされていないというのが正解か。
その証拠に、今日も誘ってみたものの彼女は来なかった。最近では但馬守殿にも憐みの目で見られているし、はぁ……普通にへこんでしまうな。これからどうすればいいのかと考えると。
「嘉兵衛殿!」
だが、その時だった。声が聞こえたので振り向くと、汗だくで息を切らしながら立っている但馬守殿の姿を見たのは。
「如何されましたか?」
「すまぬが、ちょっと来てもらえないだろうか?」
「まあ、いいですが……」
作業場を見渡すと、どうやら全員、灰の投入は終えているようなので、俺は後を藤吉郎に任せて但馬守殿についていくことにした。すると、その道中で但馬守殿は言った。お父君、和泉守殿が倒れたと。
「え……」
聞いた瞬間、思わず足が止まりそうになったが、但馬守殿は止まらず先に進むから俺も付いていく。そして、その先で……布団に横たわる和泉守殿の姿を見ることになったのだ。
「和泉守殿……」
「嘉兵衛殿……意識がないのだ。これからどうしたらいいのか……」
そう呟かれた但馬守殿は、涙を流しながらその場に崩れ落ちた。ただ、気持ちはよくわかるが、今は泣いている場合ではないと考えて、まずは誰にも見られないように障子を閉めた。
「それで、医者は何と?」
「このまま目覚めなければ、そう長くはないと……」
もしかしたら、脳卒中の類かもしれない。外科手術ができないこの時代では致命傷だ。
「但馬守殿、この事を知っている者は……」
「医者とそなた以外は今の所は……」
「そうですか」
ただ、その医者は、殿の御身内である南渓和尚に繋がっているため、おそらくそう遠くないうちに殿の耳に入り、そして、城内にも広まるだろう。もしかしたら、この機に現状をひっくり返そうとクーデターまがいの手に出る者もあらわれないとも限らない。
しかし、それはきっと俺にとっては望ましくない結果をもたらすに違いない。いや、確実に小野一派と見なされているから、下手をすれば殺されるという事も考えられる。
「さて、どうするか……」
迷った俺は暫し思案したのちに、事態を打開するために、まずは和尚に会いに行くことにしたのだった。




