第126話 氏真は、家督継承を前に心構えを教えられる
永禄元年(1558年)閏6月中旬 駿河国今川館 今川氏真
父上から軍師に任命された大蔵少輔が部屋から出て行き、再びこの部屋は二人きりになった。
「ふふふ、大蔵の奴め。ビビッておったの」
そして、先程までの大蔵の姿を思い出したか、父上は小気味よくお笑いになられたが、そんな事よりも余はその父上を問いただしたかった。
隠居の事といい、先程の事を含めた人事の事といい、全くもって寝耳に水だったのだが、どういうことなのかと。
「おや?説明していなかったかの」
「説明どころか、ここのところ顔を合わせていなかったではありませぬか」
「そういえば、そうであったな。いや、悪い。何しろ、あの大蔵のせいで色々とあったからな」
まあ、おばあ様の事も含めて色々あったことは否定しないけれども、流石にこういった大事な話は事前に教えておいてもらいたいものだ。しかも、寿が侍女たちから聞いたと余の耳に入れてくれたから知る事ができたわけで……全くもって赤っ恥もいいところだ。
「それは済まぬことをしたな。許せ」
「許すも許さないも、それはもうどうでもよいのですが……それでどうなのですか。一時の気の迷いとかではなく、本当に三河に行かれるおつもりで?」
大蔵少輔が雪斎たちに献策した上洛に関する作戦については、余も知ってはいるが、その上でこうも思ったのだ。駿河、遠江、三河の三国70万石程度の領地であれば、いずれ現れる天下人に頭を下げて積極的に協力する姿勢を見せたら、見逃してくれるのではないかと。
だから、この機会を逃すまいと、本当に大蔵の策を実行するのかと父上に確認した。平地に乱を求めるよりも、こうして今は平和を謳歌しているのだから、それで満足しては如何かと。
「なるほどのう。そなたも色々と考えていたのだな……」
「それが今川家を継ぐ者としての役目でございましょう。それで、某の考えは如何ですか?そもそも、我らはこれまでも将軍家に仕えていたわけですし、同じように新しい主を仰いでも……」
「だがな、氏真。それでは家臣たちが納得せぬぞ。皆は今日よりも豊かな明日を手に入れるために我が今川家に尽くしてくれているのだ。それなのにその豊かな明日を用意する気持ちが主にないとわかればどうなる?」
「どうなるって……」
何も変わらないのではないのか。そんな事を思っていると父上は続けられた。そのような事になれば、豊かな明日を用意してくれる別の主にしっぽを振ることになるだろうと。
「武田、あるいは北条……それか、今は従ってくれている配下の者たちの中から名乗りを上げる者がいるかもしれぬな。まあ、それが誰なのかは考えたくはないが……」
そして、そんな状況に陥ったならば、いくら父上が健在であっても立て直しは容易ではないと仰せられた。高い確率で家が滅びると。
「家が滅びるって……この今川家がでございますか!」
「ああ、そうだ。この今川といえども滅びるであろうな。だから、我らは例え苦しくても歩みを止めてはならぬ。よいか、氏真。家督を継ぐにあたって、この事を絶対に覚えておけよ。大名たる者は、疲れても挫けても前へと進む足を止めてはならぬのだ」
その強烈なお言葉に、思わず飲み込まれそうな感覚を覚えるが、仰せられている事の意味は理解した。だから、これ以上は何も言わずに父上の判断を受け入れた。
「とにかく、留守は任せたぞ」
「あれ?家督相続は来年の正月で、三河への出立となればまだまだ先の事ですよね」
「ああ、そうであったな。余としたことがどうやら気が急いているようだ」
「急いては事を仕損じると申しますぞ。お気を付け下さいませ」
「ふふふ、そうよな。そちの言うとおりだ。肝に銘じることにしよう」
「しかし、三浦上野介が蕭何で、朝比奈備中守が韓信で、松下大蔵が張良ですか。これは流石に無理があるのでは?」
彼らも有能ではあるが、まだ若いし、何より流石に古の英雄に例えるには無理があるような気がするが……
「まあ、おだてるのはタダだからな。それで本物になってくれたら幸いと、そう思っておけば良いのよ」
「はぁ……」
それまた何とも言えないその回答に、余もまた何とも言えない気分となったのだった。




