第125話 嘉兵衛は、軍師を任される
永禄元年(1558年)閏6月中旬 駿河国今川館 松下嘉兵衛
結局、最後まで俺の名前が呼ばれることなく、お屋形様が広間から退席されて場はお開きになった。これまで務めてきた勘定奉行も駿府町奉行も別の人が任命されていたので、今の俺は無役だ。
まあ、流石に藤吉郎のやり口は俺もやり過ぎだと思っていたから、許してもらえたと思ったこと自体、甘かったのかもしれない。いや、腹を切らされなかったことがもしかしたら温情だったのかもと頭をよぎった。
「だ、大丈夫だ、大蔵。お屋形様に嫌われても、これからの今川家は若殿の時代だ。若殿なら、そなたを重く用いよう。また、俺からも口添えしておく」
「ありがとうございます、上野介様………」
「とにかく、やけになるなよ?俺からもなんとかお屋形様のお怒りが解けぬか、折を見てあたってみるからさ」
「よろしくお願いします、備中守様……」
ただ、こうして慰められると何だか余計にみじめになってくる。お二人の気遣いに感謝して、俺は広間を後にした。帰ったら絶対に酒を飲もうと、意識がなくなるまで飲み明かそうと心に決めて。
「松下殿」
しかし、そんな想いを心に秘めながら館の廊下を進んでいたところに、突然声がかかった。振り替えると、それはお屋形様の側近である浅井小四郎殿であった。
「如何なされたのですか?」
「お屋形様が内密にお召しです」
「内密に?」
もしかして、内密に此度の責めを負わされてバッサリと斬られるのか。そんな事が頭の中でよぎって背筋が寒くなったが、ここは今川館の中心部。逃げられるはずもなく、俺は小四郎殿に続いて館の奥へと踏み込んだ。すると、そこにはお屋形様だけではなく、氏真公の御姿も……。
「まあ、座れ」
「は、はい……」
氏真公が居るのなら、間違っても死を賜る事はないと少し安心して、言われたままに座ると、お屋形様は言われた。「名が呼ばれず、驚いたであろう」と。
「ええ、まあ……そのとおりにございます」
「だがのう、それには事情があっての事だ。別に先日の一件に対する恨みでそなたをこれまでの役職から解任したわけではない」
そして、そう前置きしたうえでお屋形様は俺に密命を下された。即ち、これから始まる上洛作戦を実行するにあたって、作戦の立案のみならず、情報収集及び各所との調整を全面的に担うようにと。
「それって、もしかして軍師のようなお役目にございますか?」
「そうよな。その認識で間違いない」
いやいや、待て。俺は孫子の「そ」の字も知らないぞ。いくらなんでも、それは……。
「なんだ、その顔は。まさか、自信がないのか?」
「は、はい、流石に軍師は荷が重いような……」
「しかし、そもそもの話、三河に拠点を移すことも含めて上洛に関する計画を持ち込んだのはそなただと聞いたぞ。よもや……雪斎の感心を買う為に、出来もしない事を吹聴したわけではあるまいな?」
その瞬間、お屋形様の左手がすっと横に動く。それは何かの合図のように見えて、俺は慌てて弁明した。「滅相もございません」と。
「ならば、やってくれるよな?もちろん、失敗したらそなたとそなたの妻子の命で償って貰うが……」
「承知いたしました。この松下大蔵少輔、その軍師のお役目、引き受けさせて頂きます。ただ、お屋形様……」
「なんだ?」
「それだけの大掛かりな任務を遂行するにあたっては、家中の方々を時には従わせるだけの権限を持つ役職が必要になるかと。その辺りは、どのようにお考えで?」
流石に無役のままではそのような大任は全うできない。それではいざ事を進めようとしても、誰も俺の命令に従ってはくれないだろう。
それゆえに、その事をお屋形に申し上げると、「惣目付に任じる」というお言葉を賜った。
「職務の権限としては、先程申した内容を進めるに当たって、余の権限を代行するとしよう。勝手に殺してはならぬが、逆らう者があれば、一時的に排除して、牢に放り込むくらいならやっても良い」
「承知いたしました。その御役目、謹んで拝命いたしまする」
「なお、色々と申したが、そなたには今川家の張良になってもらいたいと思っている。励むが良い」
「ははっ!」
責任は重大だが、それにしても俺が張良か。嬉しい事を言ってくれるな。これは頑張らないと……。




