第124話 嘉兵衛は、名を呼ばれず
永禄元年(1558年)閏6月中旬 駿河国今川館 松下嘉兵衛
「久しいですな、兄上」
三河から到着した玄広恵探に、お屋形様はまるで過去の事など忘れたかのように優しく言葉をかけられた。
ただし、ここは大広間で、今川家の重臣たちが勢ぞろいしている場だ。一方の恵探を見るとここは裁きの場で、きっとこの後死罪を言い渡されると思っているのか、顔は青いままで些か震えもしていた。当然、お屋形様からのお言葉に対しても返答する事はできない。
「……まあ、いいでしょう。上野介、頼む」
「はっ!……では、玄広恵探殿。貴殿に対する沙汰をこれより申し渡します」
そして、下された沙汰は、この駿府に近い増善寺にて今後も僧として暮らすことであった。
「あの寺は、亡き父上の菩提寺。どうか、余に代わって父上と兄上方の御霊を弔って頂きたい」
もちろん、監視はつくと聞いているが、この結果に恵探は驚きを隠せない。
「いいのか?本当にそれで……」
「もう遥か昔の事。お互い忘れましょうよ、兄上」
そして、「そのうちまた顔を出すので昔話を咲かせましょう」とお屋形様に言われて、恵探は涙を流して「畏まりました」と頭を下げて拝命した。あとはお屋形様の近習によってこの場から連れ出されて……此度の騒動はひとまず幕を下ろした。
なお、寿桂尼様はしばらく京のご実家に里帰りをなされるそうで、今朝方この駿府を発たれている。そのうち帰って来るらしいが、新しい隠居屋敷はこの今川館の近くにて、建設中だ。
「では、お屋形様。今日はこれにてお開きで……」
「待て、上野介。これにて一件落着と行きたい所であるが、余より皆に伝えたいことがある」
しかし、これはどうしたことなのだろうか。俺もこれでお仕舞いという事で家に帰れると思っていた矢先、お屋形様が斯様に言われて皆をこの広間に留めた。
「あの、お屋形様。伝えたい事とは?」
「うむ、まあ……いきなりこんな事を聞かされては戸惑うかもしれぬが、余は来年の正月にこの今川家の家督を氏真に譲ろうと思う」
「はい?」
今の声は誰の声だったのか。それはわからないが、確かに俺も内心では「はい?」だ。一体何を言っているのか、意味が分からないし、何でいきなりそんな話が出てくるのか……と首をかしげたくなった。
ただ、お屋形様は続けて言われた。家督は譲るけど、隠居するつもりではないからと。
「余はこれより天下を目指そうと思う。そのために、まずは三河に本陣を置き、そこを足掛かりに尾張を獲る!」
それは、以前より俺が提唱してきた考えと一致していた。もしかしたら、雪斎様かあるいは亡き備中守などから伝わっていたのかもしれない。
だが、少し異なるのは、今川家の家督を氏真公に譲り、その氏真公を駿府に留める事だ。
「上野介」
「はっ!」
「今川の本拠地はあくまでもこの駿府だ。そなたは以後、今川家の宿老筆頭となり、この駿府で氏真を補佐せよ。そして、漢の蕭何の如く後方をしっかりと固めて、余が上洛する折には支援を頼む」
「承知いたしました。謹んで拝命いたします」
続けて、三浦様と同じくこの駿府に残る重臣の名をお屋形様が口に為された。関口刑部様に雪斎様の御一族である庵原安房守様、将監様、あと蒲原様に葛山様といった今川家譜代の多くの方々が名を呼ばれて、新しい今川家を支えるようにと頼まれたのだった。
「続いて、余と共に三河に移る者だが……朝比奈備中守」
「はっ」
「そなたには韓信の如く上洛軍の大将となり、余を支えてもらいたい。その手始めとして岡崎に入り、城代として受け入れ態勢を整えよ」
「承知しました。御意に従いまする」
「うむ、頼んだぞ」
ちなみに、岡崎城をお屋形様に差し出すことになった次郎三郎には、矢作川の北に位置する安祥城に入るように下知が下った。但し、碧海郡のうち5万石の領地が知行として与えられたので、今までの人質生活からは脱出だ。
「なお、余と共に三河に向かう者は……」
しかし、これは一体どうした事だろうか。最後までその中に俺の名が呼ばれず、首をかしげた。もしかして、聞き逃したのかとも思ったが、三浦様も朝比奈様も戸惑うようにして俺とお屋形様を見ていたので、本当に呼ばれなかったのだろう。
つまり、寿桂尼様の一件について、未だお怒りという事か……。




