第122話 義元は、母から権力を奪う
永禄元年(1558年)閏6月上旬 駿河国今川館 今川義元
「義元殿っ!」
一人静かに書物を読んでいたところに聞こえてきた金切り声。思わずため息が出てしまったが、やはり会わないわけにはいかない。余は母上を追い返すことなく、この部屋へ招いた。
「それで、如何なさったのです?そのように慌てられて……」
「誤解なのです!わたしが恵探を援助していたのは、何もあなたを追い落とそうと企んでいたわけではなくて、亡き大殿の……」
「わかっておりますよ、母上。あの世に居られる父上にこれ以上悲しい思いをさせたくないからなのですね。それくらいの事はこの義元……もちろんわかっておりますよ」
「義元殿……」
そう、母上のお気持ちは何もかも初めから知っている。今更だ。
余が母上の本当の子ではなく側室腹である事も、花倉の乱では余の味方をしているふりをして恵探側に情報を流していたことも、余が彦五郎兄上を殺したと思い込んでそのような事をしたことも……全部、我が師である雪斎から聞いているのだ。
もっとも、未だに支援していたという事実は知りつつも、証拠は掴めずにいたが……。
「……ゆえに、何もご心配には及びません。兄上についてはお顔を一度拝見した後、今川家所縁の寺に入って頂き、静かに余生を送ってもらうつもりです」
「そうですか……本当にそのように取り計らってくれるのですね?」
おやおや、そうは言いつつもどうやら母上は余を疑っているようだ。しかし、今の恵探に影響力など残っておらず、いわば死人に等しき存在だ。そんな男を謀殺しようと企む程、余は暇ではない。無論、最低限の監視は付けておくが、本当にそれだけだ。
「ただ、母上……恵探のことよりも、某が案じているのは母上の身の上にございます。こうも皆に知れ渡ってしまった以上は、暫く耳汚しの話も聞くことになるでしょう。子としては御心を痛めないか、その事が気がかりでして……」
「…………」
「それでなのですが、駿府に嫁がれてから里帰りもままならなかったわけですし、ここは一度、懐かしき京にお帰りになられては如何でしょうか?」
「そ、それは……わたしにこの家から出て行けというのか?」
「とんでもありません!そうですな……騒動が収まるまでの間、半年あるいは1年程では如何ですかな?その間にこの駿府で静かに過ごすことができる隠居所を用意しますので、後はそちらでお暮しいただけたらと思っております」
まあ、これに従わずこのまま今川館に居座っても、腹を立てて京から帰って来なくても余としては何も問題はない。もう童ではないのだ。いずれにしても余の目が黒いうちは、今川家の政に口を出させるつもりはないという事が伝わればそれで十分だ。
だから、「あとは好きになされませ」と告げて、母上を退出させた。部屋には再び静けさが戻ってきた。
「それにしても、松下大蔵少輔か……」
「お気になりますか?」
「ああ……って、誰かと思えば一刀斎殿か。急に現れたから驚きましたぞ」
忍びではないと聞いていたから、これが達人の技というものかもしれない。全く気配がしなかった。
「畏れながら、そのように平和ボケなされていては、戦場で御首を取られかねませぬぞ?」
「ふふふ、そうよな。肝に銘じておこう。ところで、何の話であったかの?」
「松下大蔵少輔の話をされていたかと」
「おお、そうであったな。その大蔵少輔だが……此度の一件では非常に世話になったわ!」
ホント、此度の話は今川家の恥であるゆえ、内々に処理をしてくれてもよかったのではないかと余は思う。それなのに……よくもまあここまで派手にやってくれたものよ。この礼は必ずせねばならぬな……。
「まあまあ、そうお怒りになられずに。長年探されていた決定的な証拠をこうして公にしてくれたからこそ、寿桂尼様にとどめを刺すことができたわけですし……」
「そうはいうがな、一刀斎殿。それでも流石に館の門に告発状を貼るのはやり過ぎではないか?内々に余にだけ報告してくれたらよかったと思うのだが……」
一刀斎殿は「おそらく功を焦ったのでしょう」と笑いながら言われるが、それでもやはり納得できるものではない。特にこの騒動の後始末の事を思えば頭も痛い事だし、さてどうしたものか……。




