第119話 嘉兵衛は、恩返しの提案を受けるも……
永禄元年(1558年)6月下旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
駿府から帰って、武田家から身の安全を保障されたことを伝えに、飛加藤改め次郎吉の家に行った俺であったが、お礼にと用意された品物に度肝を抜かれた。
「これって……」
「寿桂尼の口を閉じさせるためには、より多くの脅迫材料がいると思ってな。とびっきりの逸品を取り寄せてみた」
「取り寄せてみたって……」
それは、複数通にも及ぶ書状であった。ある物は寿桂尼様から玄広恵探へ、ある物はその逆、玄広恵探から寿桂尼様へ送られた物であり、内容を整理すると即ち……今川家のお家騒動・花倉の乱において、寿桂尼様が義元公ではなく玄広恵探側と手を結んでいた証であった。
「この事は、お屋形様は……」
「知らぬだろうな。ここには『義元に殺された彦五郎の仇を討ってほしい』とまであるのだ。もし知っていたら、実の母とはいえども、今のように敬ってはいないだろうよ」
だから、次郎吉はこれを切り札に出せば、寿桂尼様は俺の言いなりにならざるを得ないというが……同時に理解もした。これが少しでもタイミング悪く外に漏れたら、間違いなく俺は殺されるだろうとも。
「……悪いが、これはそなたが持っていてくれぬか?」
「おや、臆されましたかな?」
「臆していないとはいえないが、屋敷に持ち帰るのはマズい。源五郎に探られて、武田に伝わりかねないからな」
「源五郎?ああ、武田から派遣された監視人か」
真田源五郎昌幸——。信玄の目とも言われ、家康の天敵となった智将であり、そんな男が俺の元へ来たという事に興奮を覚えはしたが、逆にそんな男が俺の行動を監視しているのだから油断もできない。
「わかった。確かにその懸念は尤もだな……」
「すまぬな……折角用意してもらったのに」
「いや、それは気にせずともよい。しかし、それならこれは一先ずこちらで預かることにして、 此度の礼は別の物にするか……」
「別の物……?」
「その真田源五郎が邪魔なのだろう。無論、殺せば武田が黙っていないから殺すわけにはいかぬが、そなたの言う事を聞く存在にできれば、重畳ではないか?」
次郎吉がいうようにできるのであれば、俺としては言う事がないが……果たしてそのような事ができるのか。そう思っていると……
「千代女」
「お呼びで」
「そなた……源五郎という小僧を堕とせ」
「「はい?」」
「何を驚く。くノ一なのだから、それくらいできるであろう?」
次郎吉が提案したのは美人局であった。要は、その体で骨抜きにしろと。そうなれば、あとはこちらの言いなりになるからと。
しかし、これには千代女が猛烈に拒絶した。
「何で!なんで私がそんな事をしなければならないのよ!!」
「なんでって……おまえ、くノ一で……」
「くノ一はもうやめたの!そうでしょ、大蔵様。武田家から身の安全を保障されたという事は、そういう意味でもあるのでしょ!」
まあ、確かにそういわれたらそうかもしれない。元いた忍び集団とは縁が切れていると見るのが妥当な所であろう。
「では、千代女。そなたは、何を持って大蔵様に恩返しをするつもりだ?」
「そ、それは……そう、それこそこの体を大蔵様に捧げるわ!」
いや、待て。それでは修羅場がやってくる。御免蒙りたい。
「ねえ、大蔵様。いいでしょ?あの真っ平よりもわたしの方が楽しめると思うけど……」
「やめてくれ……臭いが付いただけでも浮気を疑われて、酷い目に遭わされるのだ。恩返しだというのであれば、そういう俺を窮地に追い込むようなことは……」
「じゃあ、臭い消しの術を使うから、いいでしょ?」
臭い消しの術か……。確かにそれならバレないか。ううむ……迷うなぁ。何しろ、 正真正銘のくノ一だし、捕らえた女忍びを……とか楽しめそうだし。
「大蔵様、騙されてはいけません。そのような術はございません」
「ちょ、ちょっと!」
「嘘はいかんぞ、千代女。このお方は我らの恩人なのだぞ。その事を忘れるな」
ああ、なんだ嘘だったのか。それなら手を出すわけにはいかないな。




