第116話 嘉兵衛は、躑躅ヶ崎館にて(3)
永禄元年(1558年)6月中旬 甲斐国躑躅ヶ崎館 松下嘉兵衛
「では、改めまして。わたしがそちらの武田大膳大夫の妻、三条の方こと千鶴と申します」
「今川家家臣、松下大蔵少輔にございます」
晴信公が後ろで正座しながら反省文を書かされている中で始まったこの対談。千鶴様は小柄で愛くるしいお顔を為されているが、先程迄の事もあるので見た目に騙されて油断してはならない。
「ふふふ、これで一つ貸しを作りましたわね」
そして、やはりというか……このような事を言い出して、いずれこの貸しは何らかの形で返してもらうからと言ってくる。本当に、恐ろしさを感じざるを得なかった。
「それで、この手紙の事だけど……本気で忘れる事って無理よね?」
「ええ、偽りのない言葉で申し上げれば、そうなりますね」
「だから、三条よ。儂はこの者らを後腐れなく殺せばよいと……」
「お屋形様。誰がおしゃべりしていいといいましたかぁ?反省文、あと10枚増やしますよ」
「…………」
ああ、そういえばこんな女教師、前世でもいたな。元・レディースで、可愛いからと舐めていた生徒を制圧して、付いたあだ名は『女王様』。メガネ……似合いそうだな。
「大蔵殿?大蔵殿!」
「あ、はい」
「あ、はい、じゃありませんよ。あなたも反省文書きます?使者として赴いた家でこのような騒動を起こしたわけですから、わたしのために働くつもりがないというのなら、寿桂尼様にお手紙を書きますよ?」
「すみません、それはどうかご勘弁を……」
もし、そんなことになれば、あのばあさんの事だ。これ見よがしに俺を排除しようとするはずだ。ホント、今の言葉の通り勘弁してもらいたい。
「だったら、真面目に話を聞いて下さいね。あなたが望むものは、飛加藤と千代女という忍びの身の保障とその兼定よね?」
「おい、待て!大蔵は何も兼定までは……」
「お屋形様?」
「…………」
あ、黙らせた。まあ、くれるというのなら貰うけど……。
「まあ、そういうわけだから、その望みとやらは武田家としても叶えることにしましょう。その代わり、このお手紙の事はご内密に」
「それは構いませぬが……先程も申した通り、本気で忘れることはできませぬよ?」
もちろん、言いふらすつもりはないが……忘れるために頭を金槌とかで殴られるとか、「これを飲めば忘れるから」とか言って、変な薬を飲まされるのは勘弁してもらいたい。
「ふふふ、大丈夫ですよ。頭を殴ったり、変な薬を飲ましたりはしません」
「はぁ……」
「ただ、あなたの側に監視役を付けたいと思います。それで如何ですか?」
もし、俺が約定を違えて、誰かにこの秘密を洩らしたならば、その監視役から甲斐の忍びに連絡が行き、俺やこの秘密を知った相手も消すと千鶴様は申された。
「大丈夫でしょう?あなたは何も漏らさないのですから」
「それは……確かにその通りですね」
うん、もうこれしか答えようがない。断れば、きっとこの時点で消される予感はした。
「それで、監視役はどなたが……」
「お屋形様には、『我が眼』と頼みにしているお方がおられます。そのうちの片方の眼は我が子・義信の側近でもありますので、もう片方の眼を駿府に遣わしましょう」
「待て、三条!それはもしや……」
「あらあら、まだお分かりになられないようね。仕方ありませんわ。無駄口を叩いた罪で反省文をあと30枚足しましょう」
「ちょ、ちょっと待てぇ!!」
「う〜ん、今の反抗的な態度であと20枚追加……と」
「ひっ!」
まぁ……誰が来るかはわからないけど、晴信公の哀れなお姿を見る限り、ここは素直に受け入れるしかなさそうだ。たぶん、今川家の内情も探る役目を担っているだろうけど。
「委細承知いたしました。全て、お方様の思し召しに従います」
「よかったわ!これで契約成立ね!!」
そして、その上で千鶴様は仰せになられた。その監視役は無期限で派遣するからと。でも、ホント誰が来るのだろう……?




