第115話 嘉兵衛は、躑躅ヶ崎館にて(2)
永禄元年(1558年)6月中旬 甲斐国躑躅ヶ崎館 松下嘉兵衛
「あの……どうしてここに?あと、その恰好は一体……」
晴信公だけではなく、俺もこの展開には驚いて思わず無人斎様に訊ねたのだが、返ってきた答えは「どうじゃ、似合うであろう」だった。
「似合うって……」
「禿げ頭だからのう。カツラは何でもかぶれるし、きちんと髭を処理してこのように化粧を施せば……どうじゃ、若い娘は無理だとしても、年配の侍女には見えるであろう?あと、胸は詰めモノじゃが、これはそなたの嫁と一緒だ」
「はぁ……」
いや、確かに侍女には見えるし、こうして正体を明かされなければ気づかなかったかもしれないけど、それよりもどうしてそこまでしてここに居るのか。全くもって意味が分からない。あと……最後の一言は、おとわに聞かれたらヤバいと思う。
「あ……最後の一言は、余計じゃった。そなたの嫁には内緒だぞ。あれは年寄りが相手だろうが容赦ないからのう」
「は、はぁ……」
なんだ。無人斎様もおとわは怖いのか。しかし、そんな無人斎様は、びしっと指を突き立てて宣言した。
「まあ、それは兎も角、晴信よ。この偉大な父のお出ましだ!この上は観念して、潔く腹を切れ!」
「何が観念せよだ、この糞ジジイ!飛んで火にいる夏の虫とはこの事よ。者ども出会え!出会え出会え!!腹を切るのは貴様の方よ、この糞戯けがぁ!!」
青筋立てて激怒された晴信公がそう叫ぶと、もしかしたら最初から控えていたのかもしれないが、二十人は有に超える侍がこの部屋になだれ込んで来た。
「よいか!そこのジジイは我が父の名を語る不埒者だ!手引きしたその男共々後腐れなく討ち取れぇ!!」
「「「「おう!!」」」」
いや、待て!別に俺は手引きしたわけじゃないぞ。それなのに何でこんなことになるのか。親子喧嘩に他人を巻き込むなと言いたい!
「諦めよ、大蔵。晴信はどちらにしても、そなたを生きたまま駿河に返すつもりはないのだ。それはわかるであろう?」
「まあ、毒を盛ろうとしたわけですからねぇ……」
「ならば、腹を括れ。得物は敵から奪えばよいじゃろう?」
全くもってその通りだ。俺は一番近くにいた男を素早く投げ飛ばして刀を奪うと、次々と襲ってくる敵をなぎ倒していく。ただ、このレベルの連中から奪った刀はやはりもろい。
「くそ、もっといい刀は……」
「殿!」
「五右衛門か!それに左近も!」
「どうぞ、この刀を。あと、右側は我らが受け持ちますゆえ、どうぞ晴信公を……」
「わかった!」
そうだ。大将を押えたら、この戦いはおしまいだ。俺は五右衛門から手渡された刀を抜いて、 晴信公を目指して突き進む。
「おい、待て!それは儂の兼定じゃないか!なぜ、貴様がそれを持っている!?」
「知りませんよ、そんなことは!」
ホント、そんな凄い物をどこから持ってきたのだろうと俺も思うけど、今はその事を詮議する余裕はない。
「飯富三郎兵衛だ。お相手仕る!」
しかも、この小柄な男に手間取ってしまい、足が止まった。そうこうしているうちに騒ぎを聞きつけた武田の侍たちがこの部屋にやってきて、晴信公の姿はその向こう側に消えてしまった。こうなるとどう見ても勝ち筋はない。
「無人斎様!」
「狼狽えるな!もう間もなくだ。間もなくの辛抱だ!!」
何がもう間もなくなのか。そう思いながら刀を振るっていると、「静まれ」という女性の声が聞こえた。
「三条……」
「お屋形様にお話があってきました。皆の者、下がりなさい」
その女性は、凛とした佇まいでそのように命じて男どもを黙らせた。誰だと思って無人斎様に訊ねると、この方は晴信公の正室、三条の方様ということだった。そして、その手には……どこかで見たことのあるような書状のようなものが握られていた。
「ま、まさか……無人斎様?」
「三条とはずっと手紙のやり取りをしていたからな。この屋敷に来た時、すぐに会いに行って仔細を話しておいたのよ。手紙の写しを添えてな」
「ああ、なるほど……」
どうして侍女に扮してこの場に来られたのか。ようやくその理由を理解したが……その一方で晴信公は正座で三条の方様に叱られていた。例の古今集を取り上げられた上で。
「やはり、源助とはまだ繋がっていたのですね!」
「い、いや、これはだな。何かの間違いというか、何というか……」
「じゃあ、この手紙は何なのですか?これはどう見てもあなた様の筆跡ですよね?」
「そ、それは……」
「別れたというのは嘘だったという事!?ホント、信じられないわ。御仏にまで誓ったというのにぃ!!」
「すまぬ!この通りだ、許してくれ!!」
「いいえ、今日という今日は許しませんわ。男同士で何て、ああ気持ち悪い!実家に帰らせていただきます!!」
ちなみに、三条の方様の御実家は既に絶えてなくなっており、帰るとしたら妹君が嫁がれている石山本願寺だとかで、甲斐の国で一揆を起こされないためにもここは宥めないとダメらしい。
「待て!今度こそ別れるから、許してくれぇ!!」
どこの家も嫁の機嫌取りには苦労するのだなと思いつつ、俺は無人斎様と共にこの夫婦喧嘩が収まるのを待つのだった。




