第114話 嘉兵衛は、躑躅ヶ崎館にて(1)
永禄元年(1558年)6月中旬 甲斐国躑躅ヶ崎館 松下嘉兵衛
「お屋形様のお出ましにございます」
広間でただ一人待っていたところに小姓と思しき少年からそう告げられて、俺はいよいよだと気を引き締めて頭を下げた。すると、ドスドスと足音が聞こえて、武田信玄——今は出家前であるため、晴信公であるが、家臣を伴われて上座に着座された。
「松下大蔵と申したか。武田大膳大夫である!面を上げよ」
「はっ」
そして、建前上の口上を申し上げる。若君・義信公へ嫁がれた若御台様がご懐妊された事を寿ぐお屋形様の御言葉を伝えて、祝いの品が記された目録も献じた。
「ほう……澄酒が10樽か。これは豪気だな。義元公にもこの晴信が感謝していたと、よろしく伝えておいてくれ」
「承知しました」
ただ、あちらもわかっているのだろう。これはあくまで本題を前にした前座であることを。
「ところで、大蔵よ。実は、内々にそなたに相談したいことがあってだな……」
「相談ですか」
「そうだ。それはそなたも同じであろう?」
晴信公が目配せをすると、脇に控えていた家臣たちが一斉に立ち上がってこの部屋から去っていった。つまり、人払いというわけだ。
「余人に聞かせたくはないゆえな。その意味はわかるであろう?」
「はい、それは……」
「それで、飛加藤が持ち去った古今集だが、そなたの手にあるのであろう?返してくれぬか。無論、相応の謝礼はするぞ」
金でも女でも、太刀でも馬でも何でも言ってくれという晴信公の御言葉に魅力を感じないわけではないが、俺は落ち着いて返却の条件を伝えた。即ち、飛加藤と千代女の身の安全を代わりに保障してほしいと。
「なんだ、そんなことでよいのか?欲がないな、そなたは」
「おや、人は石垣ではなかったのですか?」
「ふふふ、そうだな。これは一本取られた」
「それで、如何ですか?お認めになられるのでしたら、古今集はこの場でお返しいたしますが……」
その問いかけに、晴信公は「わかった」と申されて頷かれた。合わせて、「飛加藤と千代女が武田領内に入らない限り、 武田は手出しをしない」という誓紙もこの場で書いてくれた。
「これでよかろう?」
「ありがとうございます。では、こちらの品を……」
人払いをしているため、畏れ多いことながら俺は自ら古今集を晴信公に手渡した。
「うむ、確かに受け取った。しかし、一つ確認しておくが……そなた、中身を見ていないだろうな?」
「もちろんにございます。大事な品と伺っていましたので、それはもう……」
これは、予想された質問。だから、ボロは出ていないと願いたい。
「……そうか、ならばよい。では、これで取引は成立だな」
晴信公はにっこりと笑みを浮かべられて、手をパンパンと二度鳴らした。すると、侍女たちが膳と酒をこの部屋に運び込んで来た。
「澄酒も良いが、甲斐の酒も中々いけるぞ。折角なので味わっていくとよい」
出された酒はどぶろくだったが、おそらくこの中には毒が入っていると俺は思った。だから、「実は下戸でして」と辞退した。しかし……
「なに?余の酒が飲めぬと!?」
……このように不機嫌そうに凄まれてしまえば、流石に辞退する事は叶わない。毒が入っていたとしても、飲まなければ無礼を咎められて今川家と武田家の関係悪化を招きかねないのだ。そうなれば、あの寿桂尼様が何を言い出すのかわかったものではない。
「では、少しだけでしたら……」
「よし!では、そこの侍女よ。ついでやれ」
それ故にこうなっては仕方ないと、俺は予め飲んだ次郎三郎特製の解毒剤が効いてくれる事を願いながら、杯に入った酒を飲み干した。
「どうだ、美味しいか?」
「ええ……」
ただ、そんな俺の回答に晴信公は首を傾げて、「おかしい」とか「分量を間違えたのか」とか、「すぐに効くと聞いていたのに」などなどと、ぶつぶつ呟いていた。
「あの……なにか?」
だが、その俺の質問に答えてくれたのは晴信公ではなかった。
「アハハ!酒なら儂が取り替えておいたわ!」
「ち、父上!?な、な、なぜ、ここに!!」
晴信公がうろたえられるのも無理はない。何故なら、声の主……無人斎様は、侍女の姿で俺の側にいたのだ。




