第111話 嘉兵衛は、古今集騒動の後始末に乗り出す
永禄元年(1558年)6月上旬 駿河国駿府 松下嘉兵衛
飛加藤には、『庭師の次郎吉』という名の戸籍を与えてそのまま放免した。用事があれば、また仕事を請け負うと言ってくれたから、一定期間はこの駿府に留まるつもりのようだ。
ただ、そうなってくると……千代女との約束をどうするのかという問題が残る。飛加藤を今川家の領民とした以上は、その居場所を武田に報告させるわけにはいかないからだ。
「……というわけで、ここにそもそものきっかけとなった古今集は取り戻したわけだから、それを返却するという事で手打ちにしてもらえないか?」
「はぁ……」
ちなみに、例のラブレターは元のとおりにそのままこの古今集の中に収められている。一応、内容については六郎殿の手配で転記済みではあるが、今のところ無人斎様にはこれを武器に晴信公と戦われるおつもりはないらしい。
「しかし、大蔵様。これを返したら返したで、どうやって取り戻したという話になりませぬか?」
「そこはそなたが飛加藤を討ち取ったという話にすれば……」
「流石にそれは無理があり過ぎでしょう。将来はともかくとして、今のわたしは新米のくノ一。例えこの身体を使って罠に嵌めようとしても……飛加藤には敵わぬことは明白です。そのような話をしても、誰も信じてくれないでしょう」
「なるほど……」
納得している場合ではないが、言われてみれば確かにその通りだ。そして、信じてくれぬのであれば、そのような嘘をつくこと自体がマズいことになりかねない。千代女としては受け入れられないのも当たり前だ。
「ただ、それならどうすればよいかな。藤吉郎は……」
「殿、藤吉郎殿は現在、勘定奉行所にて……」
「ああ、そうであったな」
特に千代女とまだ繋がっていることは内緒にしているのだ。この件については頼るわけにはいかない。
「いっそのこと、こちらから武田に取引を持ち掛けてみてはいかがでしょうか?」
「弥八郎、取引とは……?」
「この古今集の中身を公にせず、そのままお返しする代わりに、飛加藤殿と千代女殿への手出しを禁じてもらうのですよ」
その話を聞いた千代女が「え?わたしもですか」と驚いているが、ここまで秘密に関わってしまった以上は、帰国しても殺されてしまう可能性は高いと弥八郎は言った。それに、一人保護するのも二人保護するのもそう変わりはないからと。
「だが、武田家にはどうやって話を持ち掛ける?」
「その辺りは三浦様と朝比奈様に協力してもらいましょう。何か進物を送るとか、武田家向けの用事を作ってもらって、その使者となるのです。さすれば、晴信公との内密なお話もそう難しい話ではないかと」
「ふむ……」
弥八郎はそういうが、俺は思案する。果たして本当にそう上手く事が進むのかと。使者として赴いた先で、表向きは病死ということにして、口封じとばかりに謀殺されることだってあり得るわけで、実に悩ましい。
「もし、殿がご不安を感じておられるのでしたら、某が参りますが?」
「弥八郎が?」
「はい。もちろん、その折はそれなりのお役目を一時的にとはいえ、ご用意していただくことになりますが……」
ただ、その場合、万一の時はこの弥八郎を俺の身代わりとして失うことになるわけで……やはり、それは受け入れられなかった。
「仕方がない。これは俺の手で直接晴信公にお返しするか」
「それが一番よろしいかと。護衛には左近と五右衛門を付けまする」
もっとも、俺も容易く討たれるつもりはないが、万一の事は考えておく。産まれてくる子の名前と、その後の話だ。
「産まれてくる子が男の子であるなら、その子に跡を継がせ、女の子なら仙千代にあずさを娶らせて跡取りとせよ。あと……藤吉郎には後見を頼むと伝えてくれ」
「それで、お名は?」
「それは、これから考える」
まあ、今の武田家は同盟国だから、何も起こらないとは思うが……。




