第12話 但馬守は、悔しい気持ちを吐き出して
天文23年(1554年)7月中旬 遠江国井伊谷城 小野政次
はじめ、話を聞いたときは「何を馬鹿なことを言っている。酒に灰を入れるなんて」……などと思っていた。しかし、実際に目の前で白濁だった酒が透明になっているのを目の当たりにして、俺は正直な気持ちとしてこの嘉兵衛という男に畏怖を覚えた。
しかも、これを出しにして、気賀の瀬戸屋から1千貫の銭も獲ってきたのだから、交渉に当たったという藤吉郎も含めて、こいつら一体何者なんだと思った。
「これは凄いのう!しかも、いつもの酒よりも美味しいぞ!!」
だから、終始頬を緩ませて無邪気にお悦びになられる姫様と同じようにはできずに、折角藤吉郎が懇親の場を設けてくれたというのに、俺は複雑な思いを抱えたままでひとり苦い酒を飲む。しかも、苦いと言ってもとっても美味い酒なのだから、余計に悔しかった。
「あらあら、こんなところで何を一人拗ねているかしらねぇ、このお鶴君は」
だが、そんな風に一人輪から外れていたところに声をかけてきた女がいた。嘉兵衛が娶りたいと狙っている奥山家のひよ殿だ。ちなみに、鶴とは俺の幼名・鶴丸を由来としている呼び名だ。
「うるさい。放っておいてくれないか、女狐」
「女狐ってなによ。誰かに構ってほしいから拗ねているんじゃないの?この童貞坊やは」
「ど、童貞って……」
「あれぇ?もしかして、違った?」
くそ……違わない。その事が余計に俺をみじめにさせる。そういえば、あいつらはどうなのだろうか?もし、その方面でも後れを取っていたならば、流石に立ち直れない。
「まぁ……そんなに深く考えなくてもいいんじゃないかしら?」
「うるさい。あいつら、俺よりも2つも下なんだぞ。これで女性経験までも負けていたら……」
「はぁ……だからそこなのよ、あんたがダメなところはさ。大体、今の質問は別に女性経験の事を訊いたつもりじゃないのよ?」
「え……?」
今の話の流れで、じゃあ何を訊いて来たんだと思っていると、ひよ殿は「利用できるんだから、有難く思って使えばいいんじゃない」と言ってきた。
「使えばいいって……」
「あら、それじゃあ使わないの?はっきり言って、あの二人はこの井伊家に莫大な利益をもたらす金蔓よ。しかも、気前が良い事に1千貫も酒の売り上げで発生する利益も、その7割は蔵に入れてくれるって話じゃない。これで真っ赤っかだった財政も建て直せるんでしょ?」
そうだ。それがはっきり言って俺は気に食わないんだ。たった2か月しかいない奴にあっという間に追い抜かれて、じゃあ、俺は一体今まで何をしてきたんだと。
ただ、その一方でわかっている。この感情の正体を。これはまさに男の嫉妬、負け犬の遠吠えだ。ああ……余計にみじめになって来た。
「あらあら、なにも泣くことないでしょう。ホント、いつまで経っても泣き虫だね、鶴君は」
「……うるさい、女狐。ほっといてくれ」
「今なら、このお姉さんが特別に慰めてあげるわよ?お布団の中でじっくりと朝まで……」
「ふん……それは、あの男とやってやれ」
俺は、嘉兵衛を指差してそう言った。しかし、ひよ殿は苦笑いを浮かべて「やめとくわ」といった。
「どうしてだ?あいつは良い金蔓なんだろ。手に入れたら幸せになれるんじゃないのか?」
「馬鹿だねぇ。あんな得体のしれないヤバい男に手を出したら、火傷するわよ。もちろん、敵に回したらより厄介だからそこそこは仲良くはなろうと思うけど……」
その上でひよ殿は言った。あの男とだけは一緒になることなどありえないと。
「だが、その様子だと気づいているんだろ?あいつがなぜここに来たことも」
「ええ……だから、わたしも飯尾の若殿様に手紙を送ったわ。別れることに同意するから、これからは他人として放っておいてくださいと」
なるほど……つまり、これであいつらがここに居る理由はなくなったというわけか。
「だけどね、鶴君。わたしは思うわよ。あの二人は手放しちゃダメだってね。井伊家のためだけじゃなく、あなた自身のためにも」
「俺自身のため?」
「敵わないと思っているのなら、できるだけあの二人から学べばいいのよ。それがきっとあなたにとって利益になるわ。お姉さんが言いたいことはそれだけ」
そして、ひよ殿は俺の肩をポンポンと叩いてから離れていく。ああ、その通りだと思うからこそ、飲み干したこの美味い酒がまた苦く感じた。




