第108話 無人斎は、上機嫌の中で密書を受け取る
永禄元年(1558年)5月下旬 駿河国駿府 武田無人斎
ああ、笑いが止まらない。くくく……今川館ですれ違った時に見たあのババアの顔、何度思い出しても愉快でたまらないわ!
「如何なされたのですか、父上。そのように上機嫌で……今川館で何かいいお話でも?」
「おお、六郎か!実はな……」
今川館の内外から集めた情報によれば、先日の評定で松下大蔵が駿府町奉行を兼ねることが決まったらしいが、あのババアはあくまでもその人事に異を唱えたらしい。義元の所に行って、激しく再考を求めたとか。
「しかし、お屋形様はお認めになられなかったと?」
「そうよ。しかもな、『某はもう童ではありませぬので、政に口を出されぬよう』……とまでいわれたそうな。くくく、義元も言いよるわ!まさにそのとおりよ!」
「それはまた……寿桂尼様にとっては、御腹立ちでしょうね」
「ああ、かなりな。さらにいうとな、どうも義元にそう言わしたのは儂だと思っているようでなぁ……」
まあ、これは全くの濡れ衣ではあるのだが、「おのれ、この居候が!」とすれ違いざまに耳に入ってきたあの負け犬の遠吠え。実に快感だったな。
「あの……関わっていないのなら、否定された方が良いのでは?余計な軋轢をこれ以上生むのは如何かと思いますが……」
「なにをいうか、六郎。こういう面白きことに関わらずして、何を楽しみに生きて行けばいいというのか。侵略すること火の如く、揉め事の火種があれば、煽って大火事にする。これが儂の生き方というものよ!」
特にあのババアは、儂の野望を何かと阻む邪魔者だ。大蔵の後ろ盾になって、この機会に叩いておくのはそう悪い話ではない。ついでにいえば、歳も歳だし、怒り狂ってあの世に隠居してくれたら万々歳だ。
「しかし、あの顔を思い出すと……プププププ、笑いが止まらぬな。あはははは!!!!」
「まあ……父上が上機嫌であるのはめでたきことではありますが、それより……少しよろしいでしょうか?」
「ん?」
六郎がそう前置きして相談を持ち掛けてきたので、儂は何だろうと思って笑うのを止めたのだが……手渡されたのは、ぐしゃぐしゃになった紙であった。しかし、よく見れば、何やら書かれていた。
「なになに……晴信の秘密を握ったので、買い取らないか……だと!」
「さっき、この屋敷に投げ込まれた石に包まれていた物でして。それで如何なさいますか?」
広げた紙には、「買い取る気があるのであれば、今宵、銭百貫(1,200万円)相当の砂金で売るから、城下の北にある荒れ寺に来るように」と、簡単な地図と共に記されていた。
「場所は何となくわかるが……」
怪しいし、何より100貫分の砂金をすぐに用意できるかと言えば、それは無理だ。特に今月は堺から取り寄せてもらった茶碗の支払いもあるし、それがなくてもそのような大金を急に捻出できない。
ただ……晴信の秘密か。
「如何なさいますか?兄上の秘密を知る事ができれば、あるいは甲斐に戻るきっかけを得る事も……」
「だが、六郎。ない袖は振れぬぞ。いや、知りたいのは知りたいが……」
「でしたら、某に一つ考えがあるのですが」
「考えだと?」
それは一体何なのか。そう思っていたら、六郎は言った。銭がないのであれば、ある人に出してもらえばいいのだと。具体的な名を挙げると、それは松下大蔵だ。
「大蔵殿であれば、例の澄酒とか洗濯板とかそろばんの商いで、それなりにため込まれているかと。加えて勘定奉行でもございますし、何なら今川家の為の必要経費だと言ってお願いしてみては……」
「なるほど、それは妙案じゃのう」
まあ、あのババアとの喧嘩で後ろ盾になってやるのだから、それくらい融通を利かせてもらっても罰は当たらぬはずだ。よし、そうと決まれば、善は急げだ。
「では、行ってくるとしようか」
儂は六郎の言葉に同意して、早速大蔵の屋敷に向かうことにしたのだった。




